宇宙航空環境医学 Vol. 44, No. 3, 71-82, 2007
原 著
航空機内での心肺蘇生の実施により心的外傷を負った1例
大塚祐司
総合病院国保旭中央病院神経精神科
Bystander’s Trauma after In-Flight Cardiopulmonary Resuscitation
Yuji Otsuka
Department of Psychiatry, Asahi General Hospital
ABSTRACT
A 55-year-old businessman (designated X) traveled from TOKYO in Japan to Ho Chi Minh City in Vietnam as part of a group tour on V airline. This was his first flight and he felt stressed after take-off. He collapsed in the aisle approximately 2½ h after takeoff. A 31-year-old businesswoman (designated Y) also traveling to Ho Chi Minh City alone to study the influence of defoliants on the environment noticed that the cabin attendants and travel agency staff were moving hastily about the cabin after hearing a thud and volunteered to help. When she was taken to X, he was in cardiopulmonary arrest. Y took him to the galley with the aid of the cabin attendants and administered cardiopulmonary resuscitation (CPR). When she began CPR, many passengers rushed to the galley to take photographs and videos. The cabin attendants reseated the passengers and CPR was continued by Y alone. There were no doctors or nurses aboard the aircraft. Y requested an automated external defibrillator, but the cabin attendants did not have one set up in the rear of the plane. X recovered after one hour. The airplane reached Ho Chi Minh City without diverting course 4 h after X collapsed. On landing, Y took X to the emergency medical service. X returned to Japan with little difficulty in moving his fingers and returned to work. In contrast, Y had symptoms of Acute Stress Disorder, Posttraumatic Stress Disorder and Critical Incident Stress (CIS), i.e., fear reactions to camera shutter noise, flashbacks to the scene where she was surrounded by the passengers, avoidance of scenes resembling the incident on the plane, etc. Her psychiatric symptoms recovered gradually with “informal debriefings” with staff of the emergency medical service, family members, and other people.
Bystanders often experience the symptoms of CIS. Victim fatality and lack of ‘debriefing’ are the most important factors leading to bystanders seeing CPR as a negative experience. Fortunately, the victim in this case recovered almost completely, and repeated informal debriefings were provided. This is first report of a non-medical layperson rescuing the victim of sudden onset cardiopulmonary arrest alone on a plane. This case highlighted the lack of a support system for psychological problems in bystanders to traumatic events in Japan, and some airlines may be inadequately prepared to cope with in-flight medical emergencies.
(Received: 22 May, 2007 Accepted: 13 September, 2007)
Key words: CPR, airline, stress, trauma, bystander
和文要約
1990年以降,国内外の航空機内にAEDが搭載され,客室乗務員らが救命する事例が相次いで報告されている。日本でも2001年10月に日本航空国際線にAEDが搭載されたことを契機に,航空機を含む公共の場所へのAED設置が普及している。そのような中,平成18年2月17日金曜日,成田発東南アジア行きの外資系航空機内にてツアー旅客(55歳,男性,会社員)が心肺停止に陥った。同機にたまたま乗り合わせていた日本赤十字救急法指導員を持つ個人客(31歳,女性,会社員)が1時間に渡り1人で心肺蘇生を行い救命した。心肺蘇生と並行して行われたドクターコールに応じる者はおらず,客室乗務員に繰り返し要請されたにも関わらず機内に搭載されていたAEDが心肺蘇生の現場に持ってこられることはなかった。また客室乗務員は心肺蘇生を手伝わなかった。加えて多数の他の乗客が野次馬と化して現場に殺到し,心肺蘇生の現場を写真やビデオで撮影した。当の男性は軽度の手指の運動障害を残したのみで,元の勤務先に復帰した。しかし救命した女性は心肺蘇生時の出来事が元で惨事ストレス症状を呈して急性ストレス障害,外傷後ストレス障害を発症し,帰国後も長期間に渡って社会生活に支障を来たす状態が続いた。惨事ストレスは大災害の被害者のみならず,被害者を救援する救援要員にも生じ,日常的な救援活動でも見られる。また,バイスタンダー(たまたま生命の危険に陥った人の側にいて救援する人)も同様の症状に見舞われることがある。本事例では幸運にも,結果的に帰国後の女性の周囲の対応が適切であったため,それが精神療法的な役割を果たし症状は徐々に軽減した。しかし本邦に於いてはバイスタンダーの心のケアを行う制度が構築されておらず,本例は図らずも制度的欠陥を露呈させた。従って早急に全国的組織を構築して,バイスタンダーの精神的問題をサポートすべきである。
はじめに
院外心停止症例に対して蘇生を行うプログラムは1966年に英国のBelfastにて始まり12),少し遅れてAHA(アメリカ心臓協会)もChain
of Survivalという救命戦略を始めた11)。世界一の救命率を誇る米国北西部にあるワシントン州シアトル市及びシアトル市を中心とするキング郡ではバイスタンダー(たまたま生命の危険に陥った人の側にいて救援する人)による心肺蘇生の実施率が50%を超え,AED (Automatic External Defibrillator) 導入前でも目撃されたVF (ventricular
fibrillation) による心肺停止患者において30%
以上の救命率を維持していた12)。米国アリゾナ州ツーソン市及びキング郡で行われた大規模な調査では,発症直後に心肺蘇生と除細動を迅速に行うことの有用性が報告されている46)。この報告によると発症から心肺蘇生及び除細動までの時間と生存率との関係は,1.
心肺蘇生開始までの時間が5分以内で除細動までの時間が10分以内では37%,2. 心肺蘇生開始までの時間が5分を超えて除細動までの時間が10分以内では20%,3.
心肺蘇生開始までの時間が5分以内で除細動までの時間が10分を超えると7%,4. 心肺蘇生開始までの時間が5分を超えて除細動までの時間が10分を超えると0%,であった。
航空機内においても英米豪等の航空会社が1990年以降,機内にAEDを搭載して客室乗務員にその使用法を含めた心肺蘇生のトレーニングを施し,その効果が実証されてきた37)。本邦では2001年10月に日本航空(以下JAL)の国際線機内にAEDが搭載され,同年12月18日の厚生労働省の通知にて客室乗務員のAED使用が医師法に抵触しない旨の通知が出された37)。また全日本空輸(以下ANA)では2003年4月に国内線・国際線の全機内にAEDを搭載し,2004年3月にはJALグループ国内線機材にAEDが搭載されるようになった13,37)。客室乗務員のAED使用解禁に伴い,JALではAHAの,ANAではMFAジャパン社によるメディック・ファーストエイドの教育プログラムによりAED使用法を含めた心肺蘇生法のトレーニングを行っている。この流れを受けて,2004年7月1日より誰もがAEDを使用出来るようになり,バイスタンダーによる救命処置に関して日系航空会社は大きな貢献をした。そのような中,2006年2月17日,ベトナム航空機内にて心肺停止に至った日本人男性が,居合わせた1名の乗客により救命されるという事例があった。救命したのは福島県相馬市在住のY氏(31歳,女性,会社員,日本赤十字救急法指導員)で,後日,日本赤十字社より表彰を受けた34)。著者はY氏に本事例を活字として残したい旨を伝えて2006年12月16日と2007年4月21日に福島県相馬市及び宮城県仙台市にて面会し,救命時及びその後の状況について詳しく聞いたのでここに報告する。
症例
平成18年2月17日金曜日,成田発東南アジア行きの外資系航空会社であるV航空のB777が離陸して約2時間半後,客室内で突然「ドカン」という大きな音がした。Y氏はベトナム戦争の際に米軍が散布した枯葉剤が環境に与えた影響について調べるために同便エコノミークラス前方席に乗っていた。彼女は慌しく動く客室乗務員と旅行会社の添乗員に気付き,近くを通った添乗員に「救急法を学んでいる者ですが,人命に関わることでしたらお手伝いいたします。」と声をかけた。添乗員は「人が倒れまして。」と返答し,Y氏は袖を引っ張られてエコノミークラス後方の通路まで連れて行かれた。倒れた乗客X氏(55歳,男性,会社員)は会社の同僚とツアー旅行に参加していた。同僚によるとX氏は飛行機に乗るのが初めてで,搭乗後より強い緊張が続き体を硬直させてほとんど身動きせず,生あくびを何回もしていたとのことであった。倒れる直前,X氏はトイレに行ったがドアを閉めた直後に出てきてそのまま通路に倒れた。横山氏が現場に駆けつけた時には,X氏は客室乗務員の男性によって上着を脱がされ通路に仰向けで横たわっていた。客室乗務員達は戸惑うばかりで急病人は放置されたままであった。Y氏は直ちにドクターコールとAEDを要請してX氏を客室乗務員と共にギャレーに運んだ。Y氏は「もしもし,大丈夫ですか?」と3回呼びかけたが反応が無く,直ちに丸めた毛布を背中の下に入れて気道確保した。しかし呼吸もない状態であったため,日頃携帯しているキューマスク(人工呼吸用携帯マスク)を取り出して息を2回吹き込んだ。吹き込みに際して抵抗はなく,吹き込み後,脈拍と体動の確認を試みたが騒音や振動で分からず耳を心臓に直接あてて聞いた。不安もあって2回繰り返して聞いたように彼女は記憶している。心臓の音も聞こえなかったため迷い無く両乳頭の中間に手を置き,15対2の心臓マッサージを開始すると共に数回に渡って客室乗務員にAEDを要請した。その間ギャレーのカーテンは開けられたままであり,乗客であった多数の中高年日本人男性が群れをなして押し寄せて「テレビと同じのをやっている。」「あの人が止めたら死ぬんでしょ?」などと言いながらカメラや携帯電話で写真を撮ったり,ビデオ撮影をしたりしていた。Y氏は心肺蘇生を止めたら「人殺し」と呼ばれるのではないかという恐怖心を感じながら心肺蘇生を行っていた。その後,客室乗務員は乗客を座らせてカーテンを閉めたものの心肺蘇生を手伝わず,Y氏が繰り返し要請したにも関わらずAEDを持ってくることもなかった。またX氏が参加したツアーに添乗していた2名の大手旅行会社添乗員は,心肺蘇生法を知らなかったため手伝うことが出来なかった。医療従事者の協力を求めるアナウンスは英語,日本語,ベトナム語の3ヶ国語にて30分に渡り繰り返されたが,名乗り出た者はいなかった。その後も添乗員がしばしば様子を伺いに顔を出したが客室乗務員は全く様子を見に来ず,飛行機が緊急着陸することもなかった。時間が経つにつれY氏の床に着いた足は痛くなり,圧迫し続けていた手は真っ赤で,腰から大腿にかけては時々つるような痛みが走ったが心肺蘇生は続けられた。途中,ベトナム人と思われる高齢の女性がギャレーでY氏の横に座り全身汗まみれになっていた彼女の顔の汗を拭っていた。約40分心肺蘇生を続けたところで,当の高齢女性がX氏の指がかすかに動き始めたことに気付いた。Y氏がX氏の胸に耳を当てて心音を確認したところ,微弱でゆっくりとした心拍が感じられた。しかし自発呼吸は回復していなかったため,5対1で心肺蘇生を継続した。彼女にとっては15対1のそれよりも体の動きが多く,体力的にきついと感じていた。心拍が再開してから20分位たった頃に僅かな吹き返しを感じ,次第に呼吸が回復,心拍も規則的かつ強く回復したので呼びかけたり身体に刺激を与えたりしながら様子を見ていた。心拍と自発呼吸が再開したものの意識が戻らない急病人を前にY氏は,また異変が起こるのではないかという不安で一杯であった。X氏は救助開始から約3時間半後に目を開けたが話はできなかった。開眼したことを添乗員に伝えたところ,客室乗務員が酸素を持って来て吸入が開始され,その約30分後目的地の空港に到着した。到着後,Y氏は最前方のビジネスクラスを担当していた唯一の日本人客室乗務員と始めて言葉を交わしたが,彼女は後方での様子について詳しくは知らなかった。また飛行機から降りる際にY氏は,最後方にAEDが設置されているのを見つけた。X氏とY氏は荷物搬送用車両の荷台に乗って救急車まで搬送されたが,その際初めてX氏が言葉を発して,呂律が回らない口調で「どうして寝ているんだ?」とY氏に尋ねた。X氏を救急隊に引継いだ所で,Y氏の4時間に渡る救命活動は終わった。X氏は現地の病院に入院し,手指の軽度の運動障害が残ったのみで退院した。日本に帰国後,精密検査を受けるも心肺停止の原因となる疾患は見つからず,頭部MRIにて微小な脳梗塞巣を指摘されて生活習慣に注意するよう指示されたのみであった。その後X氏は通院・服薬することなく会社に復帰して,通常の社会生活を送っている。尚,X氏は旅行傷害保険に入っていなかったため,入院した病院から数百万円の支払い請求が来たとのことであった。一方,Y氏は通常の体位を維持できないほどの強い筋肉痛が約10日間続き,枯葉剤についての調査は不十分なまま予定より早い5日の滞在で帰国し,帰国後高熱で寝込むこととなった。 X氏と妻は名前,住所,日本赤十字社救急法指導員との情報からY氏を探し出して,お礼の電話を入れた。その際,実際に会って礼を言うことを申し出たが,Y氏は「電話を掛けて頂いただけでも十分です。」と返答し,宮城県南部と福島県北部に居住する両者が会うことはなかった。V航空の対応に疑問を持ったY氏は帰国後,同航空日本支社に問い合わせた。AEDを使用しなかったことについては,「心臓病の患者のみに用いると思っていた。」,客室乗務員が手伝わなかったことに対しては「心肺蘇生法を学んでいても躊躇してしまい手が出せなかった。」と返答があった。
心肺蘇生の経験について「ただただ怖かった。野次馬の罵声と圧力の怖さは一生忘れないと思う。そして自分一人しかいない状況での救護活動がどんなに大変なものかも分かった。」との感想を抱いたY氏はこの一件以来,中年男性をはじめとする日本人そのものに「この人も野次馬のようなことをするんだろうな。」「冷やかしを好むんだろうな。」などと不信感を抱くようになり,孤立感も感じて笑うことが少なくなった。Y氏は大衆居酒屋などの多数の見知らぬ中年男性が集まる場所などで過呼吸症状が出るようになり,食事は女性同士で個室のある飲食店へ行くことが多くなった。またシャッター音が怖くなり,携帯電話に付いているカメラが使えなくなってしまった。救命救急に対する熱意も消失してしまい,指導員として参加していた救命講習にも参加しなくなった。さらには蘇生した時の状況が繰り返し思い浮かんでしまい,物事に集中出来なくなっていた。
そのようなY氏を支えたのは普段から一緒に救命救急のトレーニングを積んできた地元消防署署員,「兄の両親」,妹,日赤指導員の先輩・仲間,顔見知りの医師,事件後知り合った救急専門の医師達であった。2006年10月,人間不信が続いていたY氏の考え方が大きく変わったこと出来事があった。その日,地元の消防署員と居酒屋で飲んでいたときに,衝立の向こうにいた中年男性達が会話に割り込んで来た。彼らは「自分は火事があったら見に行く。」「心臓マッサージがどんなものか見たくなる。」と言っていたが,その一方で「(蘇生の)現場を見たくて写真を撮ったからあなたのことは覚えていないと思う。」「その人たちだって病人が助かって良かったと思っているはず。」などと言っていた。Y氏が忌避していた機内の野次馬と同世代で恐らくは同じ考え方を持っていた人たちが「助かって良かったと思っている。」と言ったことで彼女の不信感が軽減して気が楽になったという。その日を境に過呼吸症状はほとんど出なくなり,救命講習にも指導員として参加するようになった。しかし2007年2月に1年ぶりに飛行機に乗った際には,事件のことを思い出してしまい1度だけ過呼吸が再発した。2007年の4月時点でも講習時の心肺蘇生のデモンストレーションの際に立ったまま周りを囲まれることに恐怖心を抱いているため,受講者には座ったままにしてもらい写真やビデオ撮影もしないように協力してもらっている。
また,これとは別にトラウマとまでは行かないものの,Y氏を困惑させることが続いた。蘇生行為を当然のことと捉えていたY氏は日本赤十字社本社にて総裁から表彰状を受け取ることを断り,福島支部で顔見知りの医師より受け取っていたが,表彰されたことが赤十字新聞2006年7月号に載ってから8月中旬まで自宅への電話連絡が相次いだ。その後も講演依頼が続き,福島県や宮城県の新聞にて本事例が報道されると見知らぬ人から電話がかかってきたり,勤務先でもある実家が経営している会社に次々と人が訪れたりしていた。Y氏とコンタクトを取った方々は異口同音に「感動した」「素晴らしい」などの賞賛の言葉を口にしたが,彼女はそれを好意的に受け入れる一方で「当然のこと」をしたにも関わらず話が大きくなることに戸惑いを覚えていた。その中で電話にて連絡を取ってきた一人の救急専門の医師は,まず「大変ね」と一言言った。Y氏は大変なことを理解してもらえて嬉しかったという。前記のようにこの女性医師は,その後もY氏を支える一人となっている。
以上の経緯をたどってきた事例であるが,「もし同じようなことがもう一度起こったらどうするか?」との著者の問いに対してY氏は「怖いけど,また出て行くと思う。」と答えた。また「同じようなトラウマを持った人と話が出来たらもっと短い時間で良くなったかも知れない。」「同じ状況を経験した人たちと話がしたい。」とも話していた。
考察
Ⅰ. Y氏の処置と周囲の対応について
A. 行われた心肺蘇生について
AHA心肺蘇生と救急心血管治療のためのガイドライン2005のヘルスケアプロバイダーによる成人のBLSアルゴリズムの概要は次の通りとなっている2)。1. 体動なし,反応なし,2. 2人目の救助者に通報とAEDを依頼,3. 気道確保,呼吸確認,4. 呼吸がない場合は人工呼吸を2回,5. 反応がなければ脈拍チェック,6. 胸骨圧迫と人工呼吸,7. AEDの到着,8. 心リズムをチェック,ショック適応のリズムか,ショック適応なら9. ショックを1回行い,ただちにCPRを再開,5サイクル実施,心リズムを再チェック,ショック不要なら10. ただちにCPRを再開,5サイクル実施,5サイクルごとに心リズムをチェック,ALSプロバイダーに引き継ぐまで,あるいは傷病者の体動が見られるまで続行する。
Y氏は日本赤十字社,地元の相馬地方広域消防本部,福島県立医科大学などで繰り返し心肺蘇生の講習に参加しており,2005年3月には日本赤十字救急法指導員の資格も取得して受講者の指導も行っていた。そのため非医療従事者で,実際に心肺停止患者に遭遇したのが初めてで,なお且つ,騒音・振動・照明が悪条件で病態把握に様々な制約があったにも関わらず心肺停止の判断も含めて上記のAHAのガイドラインに準じたほぼ正確な手順で心肺蘇生を行っていた。
B. V航空の対応について
Y氏の対応に対して,V航空のそれは不適切であった。本来であれば直ちにAEDを装着,可能であれば使用をして複数の客室乗務員とY氏が交代で心肺蘇生を行い,日本人客室乗務員が傍について機長やチーフパーサーと情報交換をするべきであった。Y氏は医療ボランティアなどのために海外への単独渡航を繰り返しており,英語による意思疎通に問題はなかった。しかし航空医学に関して知っていることは殆どなかったために緊急着陸の要望を出すことに考えが及んでおらず,乗務員の適切な対応が望まれる所であった。
日本航空では機内で急病人が発生した場合,以下のように迅速に対応出来るように訓練されている36)。1. 病人発生の報告を受けた客室乗務員は,直ちに症状確認とバイタルサインをチェックする。2. 他の乗務員に必要に応じ次の事項を依頼する。ドクターコール,AEDキット,レサシテーションキット,ドクターズキット及び酸素ボトルの用意,同乗者より既往歴・常備薬の確認,協力を申し出た医師に,患者の状態を説明するとともに,医療キットの内容一覧を提示。以降,医師の指示に従う。3. 地上の医師からの支援システムを活用する。4. 機長は医師の助言を参考に,最寄の空港への緊急着陸を考慮する。5. 着陸前には地上と連絡を取り,到着空港に救急隊の手配を支持する。6. 客室乗務員は病状と行った処置を記録し,傷病者発生記録に記載する。
本事例は航空会社側が航行中の航空機内で発生した急病人に対して意図的に何もしなかった2例目の報告となる。1例目は以下の通りである10)。
アテネからサンフランシスコへ向かうオリンピック航空機内に妻子と乗っていた米国人医師ハンソンがタバコの煙で喘息発作を起こした。妻は煙から離れた前方の座席への移動を3回願い出た。客室乗務員は,当初は空席がないと,後に忙しいとの理由で移動を断っていた。しかし実際には空席が11席と移動を頼むのには十分な数の客室乗務員がいた。フライト開始2時間後にハンソンは前方の座席に移動出来たが,喘息発作が悪化して死亡した。妻はオリンピック航空を訴え,米国連邦最高裁判所は「客室乗務員の(移動)拒否」はワルソー条約上の「事故」に当たるとした下級審判決を支持し,オリンピック航空に140万ドルの支払いを命令した。
従来,航空機内の急病人をめぐって米国で争われたのは航空会社及び医師の過失についてであった。しかし1999年に米国連邦最高裁判所が,国際運送における航空会社の責任を国際的に統一する主旨のワルソー条約上の責任が認められなければ他の法律によっても航空会社の責任を問うことは出来ない,として条約の排他性を認めた31)。そのためこの判決以後は,同国にて機内で事故とは無関係に発生した急病人への対応について航空会社の損害賠償責任を問うこと自体が困難になっていた。しかしながらこのハンソン対オリンピック航空事件は客室乗務員が故意に喘息発作に対する適切な処置を取らなかったという点で責任が重く,そのために客室乗務員の対応が「事故」と認定されたものだと思われる。心肺停止患者を事実上放置したV航空の対応はオリンピック航空以上に拙劣であり,過去に報告されている事例の中では最も不適切な対応と思われる。
しかしながら発展途上国の航空会社にどこまで期待できるのかという問題が生じる。日系航空会社ですらAEDが搭載されるようになってから5年しか経っておらず,発展途上国の航空会社ではAEDが搭載されていないか,搭載されていても客室乗務員が十分なトレーニングを受けていない可能性も考えられる。また,現時点においては日系航空会社や一部先進国の航空会社については機内搭載医療品が公表されているものの3,30),多くの外資系航空会社からは公表されていない。そのために航空機内に居合わせた医師・看護師などが急病人の援助に躊躇している可能性がある14,26,40)。今後の対策として,日本発着の航空路線を認可する国土交通省が航空路線の申請受付と同時に機内搭載医療品のリストと客室乗務員のトレーニングの有無について情報提供を求めて,その結果を公表することが望ましいと思われる。また,発展途上国の航空会社については,経済援助の一環としてトレーニングプログラムを導入させるという方法も考えられる。
C. 旅行会社添乗員の対応について
ツアーを主催している旅行会社の添乗員が担当旅客の病状に対してどこまで責任を持つかは契約の内容によるが,大多数が非医療従事者である添乗員は医療機関もしくは医療従事者に急病人を引き渡すことでその責を全う出来るものと思われる。今回の件に関しても,技術的な問題で心肺蘇生を手伝えなかったのはやむを得ないと考える。しかし高齢の旅行客が増加している現在ではこれからも添乗員が同様のケースに遭遇する可能性がある。心肺蘇生で胸骨圧迫をする救助者は2分で交代することが推奨されており2),心肺蘇生の技術を持った者が多いに越したことはない。今後は旅行会社添乗員に対して渡航先の医療機関の情報を開示するのみならず,日本渡航医学会や日本旅行医学会で始めたようにAEDの使用法も含めた心肺蘇生の技術習得を促進することが大切であると思われる37)。また添乗員を採用する際に,心肺蘇生法の取得を推奨することも航空機内の医療環境を向上させることに繋がるであろう。
Ⅱ. バイスタンダーによる救急医療と精神的問題
A. 心肺蘇生とストレス
Y氏は心無い乗客の行為によって心的外傷が残り,今に至るまでシャッター音が怖くて携帯電話のカメラ機能が使えていない。また一時は人間不信に陥り,本事例の全てを人に話せるようになるまで約1年を要した。
事件・事故や自然災害などの悲惨な状況においては,被災者だけではなく救助活動を行った消防・救急隊員,警察官,自衛隊員,医療従事者などの救援要員が,それまでの職業人生で培ってきた対処能力をはるかに超えた状況にて任務を遂行することにより,悲惨さ,恐怖,もどかしさ,悔恨,後悔,悲しさ,無力感,罪悪感,自己嫌悪など,様々な感情を抱くことがある。そしてこれらがストレスとなり,心的外傷として残ると考えられている。このストレスを惨事(緊急事態)ストレス(Critical Incident Stress)と言う39,44)。個人のストレスに関する感受性と災害の大小は無関係であり18),震災のような大規模災害による救援活動だけでなく,日常的な救援活動でも惨事ストレスは体験される25)。惨事ストレスが生じやすい状況として,普段の災害より過度に体力を要する,作業環境(騒音,明るさ,臭気など)が悪い,死体を見たあるいは死体に触れる,遺族や被災者や災害現場の衆人等に見られる,十分な成果が出ない,経験したことがない状況に接すること,などが挙げられる31,39)。惨事ストレスの症状としては不眠や食欲減退などの身体反応,悪夢,現実感の消失,集中力低下,フラッシュバック(その時の光景が目に浮かんだり,臭いや感触が思い出されたりする)などの精神反応,不安,悲嘆,恐怖,怒り,無力感,自責感などの情緒反応,衝動買い,過食,過度の薬物利用,酒やタバコの摂取量増加,引きこもりなどの行動反応が見られる24,39)。これらの症状は多くの場合,十分な休息を取り,気心の知れた仲間や家族と過ごす中で,時間の経過とともに軽減し消滅する。実際にストレス症状に対する解消行動として,自然発生的にこれらの行動を取る消防署員は多い24)。しかし中にはこれらの影響が中々消えず,急性ストレス障害や外傷後ストレス障害,うつ病,適応障害などの疾患を罹患して専門家による治療が必要になるケースもある39)。現時点において惨事ストレスは精神疾患として位置づけられていない。本邦でも汎用されている米国精神医学会の診断基準DSM-IV-TRによると極度に強いストレスに起因する精神疾患には急性ストレス障害(ASD)と外傷後ストレス障害(PTSD)がある。
ASDとPTSDの特徴は両者とも,1. 客観的に見て自分又は他人の身体的安全が脅かされるような出来事で,主観的にも強い恐怖などを感じた出来事であり,2. 出来事が思考・心像・夢などの形で再体験され(再体験症状),3. 外傷を想起させる場所や物を避け(回避症状),4. 睡眠障害,集中困難などの覚醒亢進が出現し(過覚醒症状),5. 症状による著しい苦痛や社会的領域などにおける機能が障害されること,が共通して認められる。これに加えASDでは6. 孤立感,現実感消失,離人症,解離性健忘などが認められ(解離性症状),7. 外傷後4週間以内に発症し,その4週間以内に消失する,という基準がある。PTSDでは6. 症状の持続が1ヶ月以上という基準がある。ASDの症状が持続してPTSDの診断基準を満たした場合はASDからPTSDに移行したと診断する。急性のストレス反応は自然な現象であり,多くの場合,速やかに自然回復すると言われている32)。これに対してPTSDの症状の持続は様々であり,症例の約半分は3ヶ月以内に完全に回復するが,他の多くの症例では外傷を受けてから12ヶ月以上経っても症状が持続している(DSM-IV-TR)。DSM-IV-TRに従うと,外傷体験後のASD・PTSDの経過として1. ASDを発症してPTSDに移行,2. ASDのみの発症,3. PTSDのみの発症,4. 両者とも発症しない, という4つのパターンが考えられる。惨事ストレス症状はASDとPTSDの各症状を含むさらに幅広い概念で,両者ほど厳密な基準はなく,列挙された症状が一つでもあれば惨事ストレス症状と認められる。(図)つまりこの4パターンの全てと惨事ストレス症状が合併し得ることになる。
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図. | ASD及びPTSDは一連のストレス症状をある切り口で見た診断であり,ASDからPTSDへ移行することもある。また,惨事ストレス症状はASDとPTSDを抱合したより広い概念である。 |
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