東北大医短部紀要 11(1): 121〜132,2002

道元の信仰における「見・聞」の意義

渡  辺  喜  勝


   はじめに
 道元は,参禅学道を説く際にしばしば「見る」「聞く」という言葉を用いている。「見仏」「見諸法」「聞法」「聞声」などがその一例であるが,これらはいずれも修行者の真理把握の実践法に関して述べられているものである。周知のように仏教は,一般に人間の「六識」の働きを「見聞覚知」と称するが,この熟語は多くの日本の仏教者に語られてきたもので,われわれにも馴染みのある用語である。しかし道元の語法は意味的にこれらとは大きく異なっており,そこには道元独自の思想が色濃く織り込まれているように思われる。道元が伝統的一般的な見・聞に独特な意味づけを行ったということは,当然ながらその前提にそうしなければならない必然性があったからであり,その要因を探ることは同時に彼の信仰の特質を知ることにもなると予想される。  真理が見聞によって得られるということは,逆に真理は見聞の対象になりうるということである。見聞の対象とはすなわち視覚と聴覚の対象であるから,したがってそれは可視的可聴的な事象ということであり,その意味で真理は形あるものもの,音響的なものである。真理を仮に「法」とすれば,この意味で法は人間の眼と耳に何らかの形で認められるということになる。以下でみるように,道元のいう法(仏)は,人間と同じ地平の眼前のものであり,人間に隔絶した超越者ではない。それ故,人間の意志により仏と直接体験的な交渉が得られるとされる。ここに道元が見聞を強調する必然性があったと考えられる。  このような関心から,本稿では見聞による人と仏の交流のメカニズムと,そこに示される信仰の意義を吟味し,併せて道元の信仰の一端を考察してみたい。