仙台赤十字病医誌 Vol.21, No.1, 1-2, 2012

巻頭言

東日本大震災

仙台赤十字病院院長

桃野  哲

要旨

多くの人命と街並みが,東日本大震災で失われました。この震災で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りし,被災された皆様にお見舞いを申し上げます。そして,被災地の復興が一日も早く軌道に乗ることを望みます。
「三陸海岸大津波(吉村昭著,文春文庫)」には,三陸は明治以降に3度大津波の被害を受けており,被災地では津波の被害が子孫に伝承され,高台への居住地移動や防波堤建設等対策がとられたとあります。1960年のチリ地震津波で,田老町は防波堤により津波被害から免れ,志津川町で多くの死者が出たとの記載があり,当時私は中学2年生でしたが新聞記事で読んだことを思い出しました。
 2004年のスマトラ島沖地震,大津波による被害は皆様の記憶に新しいと思いますが,インドやスリランカ,インドネシア等で28万人以上の人命が失われました。私は,被災地の映像をTVニュースで見て大地震の後には大津波が来るのが常識になっている日本では,特に三陸海岸では防潮堤等津波への備えも十分なので,こんなに多くの死者は出ないだろうと考えました。後になって知ったのですが,「地震後に海の水が引いたら山に逃げろ」という先祖からの言い伝えがあるインドネシアのシムル島での死者は,数人だったそうです。日本でも,これまで何度も大津波の被害を受けていた三陸地方では同様の伝承があったのですが,大地震の後は大津波という記憶が何時の間にか希薄になったこともあり,明治から4度目になる今回が千年に一度の大津波だったため,多くの人命が失われてしまったのは残念です。それでも「津波てんでこ」と言う先人の教えを守り避難して無事な方がおり,高台移住で津波被害を免れた集落があって,日頃の,防災への心構えや災害への備えが大切なことを再認識させられました。
 当院では災害訓練や設備の点検等を,型通りでも定期的に実施していたことが,実際の救護活動等で役立ちました。私は前の宮城県沖地震も仙台で経験しており,前と比べて今度は揺れが大きく酷かったことから,間違いなく宮城県沖地震が発災したと考えました。直に対策本部を立ち上げてレベル3対応をとり,外来診療を中止して救護体制を敷いて,玄関ホールに院内救護所とトリアージエリアを設置しました。そして,電話連絡がとれず地域や他院の状況はよく分からないが,とにかく当院で出来る範囲の診療をきちんと行うと決めて職員に伝達しました。当院のスタッフは自らも被災して不便な生活を送りながら,入院患者さん等の診療に支障が無いようにと動いて期待に応えてくれました。当院のある八木山地区は水道とガスの復旧に1か月近くかかり,患者さんには入浴等で不自由をおかけしましたが,発災から数日で当院ではかなりの診療が出来るようになり,病院機能は徐々に回復して4月初めにほぼ復旧しました。震災当初は収益が落ち込みましたが,職員の協力を得て秋には回復し,逆境を乗り越えられました。
 当院の災害救護班は,被災当日は情報収集を兼ねて病院周辺地域に,その後は,3月から8月までは石巻地域の災害救護と医療に大活躍した石巻赤十字病院に,薬剤師等を診療応援スタッフとして,さらに,院内に設置された石巻圏合同救護チーム本部には,随時,医師·看護師等を派遣しました。そして他県からの救護班が引き揚げた8月末には石巻市雄勝地区へ,10月以降は福島原発事故救護活動に出動しました。この間,当院には,多くの皆様,団体,企業や全国の赤十字病院から沢山の支援物資が寄せられ,私どもは多くの元気も一緒に頂戴して励まされました。有難うございました。
 日本赤十字社は東日本大震災で,災害義援金の募集と配分に寄与し,当初,義援金の配布が遅れてお叱りを受けましたが,ほぼ配り終えています。また,全国の赤十字病院は,長期間にわたって,延820班余の救護班を被災地に派遣して災害救護活動を行いました。これらの日本赤十字社の救護·救援活動が,JNN(J:自衛隊,N:NHK,N:日本赤十字社)と呼称されて高い評価を受けていると聞く機会があり,赤十字に在籍する者として,ちょっとですが誇らしく思います。
 3月11日以降の当院の活動の経緯を,「仙台赤十字病院 東日本大震災記録集」として冊子に纏めています。その内容は当院のホームページ(http://www.sendai.jrc.or.jp)にも掲載していますので,アクセスしてご覧下さい。 今年も本誌を発行することが出来ました。震災の影響を受けて,診療等に忙しい中で,論文を投稿いただいた諸氏に感謝し,本誌の編集をしていただいた山田委員長をはじめとする編集委員各位に厚く御礼申し上げます。