宇宙航空環境医学 Vol. 62, No. 1, 5-6, 2025
会長講演
「航空の安全」 ─ 操縦不能を未然に防ぐには ─
五味 秀穂
一般財団法人航空医学研究センター 専務理事/所長
Aviation Safety - to prevent a pilot from incapacitation
Hideho Gomi
Executive Director, Japan Aeromedical Research Center
私が民間航空の世界に関わって20年余りが経過しました。その中で常に考えさせられてきたのは「航空の安全」という命題です。航空界にとって勿論これが大命題であり,多くの人達に支えられて安全が保たれてきています。
私の業務関係の領域では「航空機運航乗務員の健康管理及び身体検査基準」という問題となり,それは最終的に運航(乗務員)の安全─操縦不能を未然に防ぐ─ことが目途となります。
航空機パイロットの身体検査基準は,医学的進歩と航空機の進歩を合わせて考えながら,日本では5年毎に基準が改訂されています。それは勿論前述の「Incapacitation(操縦不能)」を未然に防ぐことを目途として作成されています。
日本において大きな悲劇的な航空機事故は1982年の「羽田沖事故」であり,それを機会にパイロットの身体検査の運用方法など,大きな変革がもたらされました。そのような中で近年には欧州においてジャーマンウイングスの事故が起こり,パイロットの健康管理や身体検査基準に携わっているものにとっては,大きな問題を突き付けられました。近年は特にメンタルケアの問題が大きな問題となってきました。このような傾向は世界の航空界でも同様の問題意識として共有されています。
パイロットも人間であり,その突発的な身体的異常をどう未然に防いでいくか…
将来の危険を予知することは非常に難しいのですが,客観的指標のあるものと,客観的指標の無いものでは,その予知の難しさは異なります。
客観的指標のあるもの,即ち血液検査や画像検査などの各種検査によって客観的評価が得られるものは,この指標を使って将来のリスクを評価することが可能と思われます。代表格が「1%ルール」です。航空安全の究極の目標は事故ゼロ。これは究極の理想であって,現実的には困難と言わざるをえません。現実的対応として,安全レベルを「事故を許容できるレベルまで削減する」に設定するため,航空医学上の安全性を議論する際の指標として「1%ルール」が開発されてきました。
この考え方は1982年,英国航空心臓医学ワークショップで,航空機の事故率と循環器系疾患との関連について報告されたところから始まります。大型ジェット輸送機による死亡事故をもとに,まず事故率が計算(100万時間当たり0.2回)され,その上で安全レベル目標値が1,000万時間当たり1回に設定されました。さらに操縦不能をきたす疾病の発症確率を加味し,109時間に1回の発生を1人操縦の許容安全レベルとしました。ここへ操縦士2人によるバックアップの確立(1/1,000に低減)を加味し,2人操縦の場合,操縦士の操縦不能発生率が年間1%(1年約1万時間に0.01回=1%)以内であれば,航空医学上求められる操縦不能許容安全レベル以下に収められると考えたのです。パイロットの疾病病態が,将来操縦不能をきたす疾患の発症にどう影響するか予測するのは非常に難しい問題です。「危ないから」と感情的に慎重になり乗務させないことは,社会的にもマイナスとなります。「1%ルール」は疾病の発症率と比較し,乗務の可否を判断する考えとして導かれたものです。
客観的指標の無いものとは,精神的な問題,心の中の問題です。精神科疾患など発症率を数値化するのは難しく,客観的医学的指標をもとに,さらに洗練されたものを作っていく必要があります。
現在メンタルケアについては「ピアサポート」などが,パイロットが同じ仲間として現場でお互いにサポートしカバーしていくことが重要として,この活動が活発化しています。またHIMSプログラム(Human Intervention Motivation Study ─直訳:人道的介入の動機付け研究)の作成・活用も盛んになってきています。更にパイロットの身分保障に関わる保証制度の確立(Loss of license),航空を経験した医師・専門家によるWaiver制度の設立などが今後必要となってくると思われます。
HIMSプログラムはで,パイロットのアルコール,ドラッグ関連など「物質依存症」の治療,職場復帰に取り組むためのプログラムで,乗務復帰までを効果的にサポートする成果を得ています。パイロット,医療専門家,航空会社,FAA(AME ─指定医)が協力してキャリアを維持し,航空安全を強化する業界全体の取り組みであり,信頼できる仲間(組合等)に相談できる窓口や職場の仲間で助けるピアサポート体制が必要となります。HIMSの効果としては,経験豊富なパイロットを新人に置き換えるよりも,治療する方がはるかに費用効率が高いと言われ,専門の教育を受けたパイロット(ピアサポート)により仲間をサポートします。米国では指定医の中にもHIMSを専門とする医師も増加しており,パイロットは平均よりもはるかに高い成功率を修めています。職場復帰率は89%,再発率は14.6%(一般は60%)。航空機を利用する国民にとって貴重な資産になりつつあります。
以上のような歴史の中で,日本における今後の航空の安全に対する課題として私が掲げたいのは,
@ より新しい医学的データを基に,より客観的なリスク評価のできる考えを持ち込むこと
A 航空会社におけるピアサポート体制の確立
B 日本版HIMSの設立
C 航空局,航空会社,ALPA,医療専門家による協力体制
D アルコールを含めた有害物質の使用の問題や未然防止・一時予防(教育・啓蒙活動)
E パイロットの身分保障に関わる保証制度の確立(Loss of license)
F 航空を経験した医師・専門家によるWaiver制度の設立
そして一番の基礎となり必要なことは,管理する者(指定医,乗員健康管理医)と管理される者(運航乗務員)との間の揺るぎない信頼関係と思っています。
乗員との信頼関係が基盤 「安全に,そして長く飛んで欲しい」