宇宙航空環境医学 Vol. 59, No. 1, 11, 2022

シンポジウム 2

宇宙社会を目指して:人文社会系からの提言

宇宙進出と放射線の倫理

伊勢田 哲治

京都大学文学研究科

Advancement into space and ethics of radiation

Tetsuji Iseda

Kyoto University, Graduate School of Letters

宇宙倫理学は宇宙開発の進展や宇宙への移住にともなって生じる倫理問題について考える分野である。その研究対象は,宇宙デブリ対策の責任問題や宇宙資源の配分のルールなど現に問題化しつつあることから,宇宙に恒久的な植民地ができた場合に生じうる問題,他の知的生物と出会ったときに何をすべきかという問題など,まだSFの領域に属する問題まで,多岐にわたる。こうした問題にできるだけ客観性を重視し,筋道を通しながら議論するのが宇宙倫理学の視点である。今回の講演では,宇宙進出の際に避けがたい宇宙放射線被爆が倫理という観点からどういう問題を生むかということを取り上げる。
 宇宙放射線は月や火星への有人宇宙開発を行う上で無視できないリスクファクターの一つである。特に,火星ミッションを実施するなら,地上の放射線業務では絶対に許容されないレベルの放射線被曝がほとんど不可避である。ある見積もりによれば,火星周回軌道への600日のミッションで予測される被曝は1.03シーベルトだという。果たしてそうした被曝を伴うミッションは本人の同意があったとしても倫理的に許容可能なのか。また,宇宙飛行士を放射線業務としてとらえたとき,女性宇宙飛行士には男性宇宙飛行士よりも厳しい線量制限が課せられるべきだろうか。それとも,ジェンダー平等の観点からはそうした格差はむしろ倫理的に問題があると考えるべきだろうか。
 全米科学・工学・医学アカデミーは2021年の6月にこうした問題についての見解をまとめた報告書を発表した。この報告書の主な勧告内容は,すべての宇宙飛行士に同じ線量基準を設定すること,その基準はもっとも保護を必要とする若い女性の線量基準に基づくべきこと,火星ミッションなどその基準を満たさないミッションについてはウェイバー(合意の上でのルール適用除外)の仕組みを導入することなどである。これらの勧告内容はよく考えられたものであるが,倫理的にも十分な解決になっているのかという点はさらに検討を行う必要がある。特に,地上の放射線業務と明白に異なる考え方を導入するのなら,納得のいく理由を示す必要がある。宇宙に生活の場が移ったあとであればリスクの考え方が変わるということもあるかもしれないが,宇宙飛行士の生活の拠点があくまで地上にある現時点では地上の放射線業務との比較を無視して「宇宙では被曝はあたりまえ」といった理屈を押し通すわけにはいかない。
 また,よりSF的な視点として,宇宙飛行士が放射線被曝をはじめとする過酷環境に適応しなくてはならないということに鑑みて,もしエンハンスメントによってそうした環境に対応しやすくなるのであれば,エンハンスメントを積極的に行うべきではないか,それどころかエンハンスメントを行うことが倫理的な義務にすらなるのではないか,と論ずる論者もいる。近い未来にはそうした時代は来ないであろうが,宇宙が生活の場となる時代に思いを巡らすことで,現在のわれわれが直面する問題へのヒントも得られるかもしれない。宇宙倫理学の研究には,宇宙から地球を振り返るという意味合いも含まれるのである。