宇宙航空環境医学 Vol. 56, No. 1, 1-2, 2019

記事

御手洗玄洋 先生 インタビュー記事(続)

その後の研究の思い出
 私は,眼底出血を患ったことがあり,それが治った後にも眼に違和感を感じたことがあリました。もしかしたら,網膜にfistula(窩洞,瘻孔)ができているかもしれないと思ってoptical coherence topography, OCTという検査をしました。今ではこの検査は普通になっていますが,当時は名古屋でも2, 3軒の病院でしか検査できませんでした。私は名大病院で検査しました。正確にいうと,spectrum-domain optical coherence topographyという検査です。Head-down tiltした時に,頭部に血液が集まっている様子などを観察しました。(注:後に問題になる宇宙飛行関連神経眼症候群(SANS)においても,このOCTが威力を発揮することになる)
 将来,iPS細胞の方法論で網膜の再生ができる可能性があるでしょう。水平細胞は,大きな細胞で,しかも犬のしっぽの様に片方だけが固定されている細胞なので,まだ知られていない機能があると予測できます。
 水平細胞は,発達の過程にある細胞かもしれません。大きな細胞なので,動くのにも都合がよい形態になっているところがおもしろいと思います。私の学位論文になったアイソレートした標本(眼球と脳)を生かしておける溶液があったなら,そのまま長く生かしておけることができ,もっとおもしろい実験ができたのではないかと思っています。
 それ(学位論文を出した時)から30年ぐらい経った学会(四国での生理学会だと記憶している。注:1994年香川医科大学での第71回大会と思われる)で,私の標本(アイソレートした眼球と脳)を作って,研究しているグループの発表がありました。その発表を聞いた時,とても懐かしいと思いました。その時に,「先生(御手洗先生)の論文をみて,実験している」という話を聞き,自分の論文が生きていると嬉しくなりました。
 名大を定年でやめた時(1984年,昭和59年)に,カルガリー大学のスペル教授の院生が先生の論文を見たからといって訪ねてきました。当時,切片をホールドするのを工夫し,ウルトラメイクを削る様にして,歯をうまいこと使える様にして,レジンで固定し,切片を作っていました。1〜2 μmの切片を作っていました。院生は,その切片を作りたいと言いました。私は形態学に興味がそれほどあったわけではないので,君に役立つ情報であれば作ってよいと伝えました。彼は,帰国してから,その切片を作り,電子顕微鏡でみたが,よく見えなかった。そこで,これだと思うところ(切片の)をもう1回切って,再び電子顕微鏡でみたらこの方法で成功したと言ってきました。それ以来,その院生は私を先生と呼んでいます。
 定年の時に,嬉しいニュースが入ってきました。そのニュースとは,定年になるから,うち(カルガリー)に来てくれという話でした。5年契約で。そこに行ったら,網膜の研究ができるのでとてもよい話だと思いました。カルガリーに行きたかったのですが……。これまで2つの分析の研究をしてきました。それをアメリカではツーハット(wear two hats)と言うそうです。今度は定年になったんだからと思って,先方にOKをだしました。Grantを取りましたと言ってきました。そして,ぜひ来てくれと言ってきました。ところが,翌年の2月になってから(中京大学に)大学院を作るけど,マル合教授(注:大学院で学位論文の指導を担当できる教員は,マル合(〇に中に合)教員とよばれ,修士論文の指導ができるMasterマル合教員と博士論文の指導ができるDocterマル合教員がある)が足りないから来てくれと言われました。定年なんだからどこも行くところがないだろうと言われましたが,カルガリーに行くことになっていると伝えました。そしたら,カルガリーに行ったって寒くてしょうがないだろうと皆んなに説得されました。あまりにも説得されたので,それもそうだなぁと思う様になり,それでカルガリーに行くのをやめたんですね。

俳句と書道の嗜み
 ある時,山口誓子(やまぐち せいし,1901〜1994,京都出身の俳人)が,肺炎の療養をしていから,そこに行って注射を打ってきてくれと頼まれました。そこで山口誓子と知り合ったんです。俳句会をやっていたので,私も加わることになりました。一緒に俳句をやったことがあります。今,書道をやっています。近代文詩(漢字とかなまじりの)を書いています。山口誓子の俳句を書くようしています。
 酒井敏夫(さかい としお,東京慈恵会医科大学第二生理学主任教授)さんが,書道部をやる(作る)といって(入会を誘って)きましたので書道部に入会しました。入った以上,ちゃんとした作品を出したいと思いました。酒井先生とは親交が深かったので,今でも会いたいと思っています。
 今,毎日書道展へ出品する作品を書いています。一週間前に二科書道展の作品を送ったばかりなんです。東海地区の書道教室に2005年から入っています。万博の時,毎日書道展をふらっと見に行ったんです。その作品に圧倒されました。すごいなぁと言って感心していたら,一緒にやらないかと誘われました。この年になって(書道を始めても)と迷いましたが,その場で書道展の先生から書いてごらんと言って紙と筆を渡され,書いてみたんです。そしたら,なかなかいい線を持っていると褒められ,その場で入門してしまいました。そしたら5年ぐらい経ってから出す(書道展に)のが普通なのに,すぐに書道展に出しなさいと言われました。先生が手本を書いてくれました。そしたら2カ所の書道展で賞をいただいてしまいた。サッカーでいえばJ2だったのが,突然にJ1に昇格してしまったようなものです。

最近の学会
 この前,久しぶりに学会(宇宙航空環境医学会)に参加したら,皆さんとてもおもしろいアイディアを考えていると思いました。
 次が豊橋の開催で,その次は倉敷です。ぜひともお出かけください。(小野寺)
 行きたいですね。孫が広島大学医学部を卒業して,呉の病院に勤務しているので,その時は倉敷にも行きます。
 長い時間,お話いただき,ありがとうございました。(岩瀬先生)

追記
 御手洗玄洋先生は,平成27年6月28日,94歳でご逝去されました。
 森 滋夫先生による御手洗玄洋先生の追悼「御手洗玄洋先生を偲んで」が宇宙航空環境医学Vol. 52, No. 3, 27-30, 2015,に記されています。詳しいご業績等は,こちらをご参照ください。
 御手洗先生は,その後,岩瀬が愛知医大でやっている外来にかかっておられました。2015年4月の土曜日の夕方のことでした。東京で研究会の最中に御手洗先生から,携帯電話に架電があり,「ついさっき,失神した」とのことでした。その前に頸椎の手術をされており、痛みが激しいので整形外科からNSAIDSをもらっているという話しを聞いていましたので、NSAIDS潰瘍からの出血性貧血を疑い,すぐに救急外来を受診してください,と申し上げました。緊張内視鏡が行われ,胃潰瘍が発見され,止血とともにリハビリが行われました。当時の愛知医大の理事長が,お弟子さんの一人の三宅養三先生でしたので,VIP扱いで特別病室に入院されました。胃潰瘍の経過は良かったのですが,入院1ヶ月後,燕下性肺炎を起こし,薬石効なく6月28日逝去されました。(岩瀬先生)
 心からご冥福をお祈り申し上げます。