宇宙航空環境医学 Vol. 55, No. 1-4, 1-3, 2018

記事

御手洗玄洋 先生 インタビュー記事

 このインタビュー記事は,御手洗玄洋先生が御存命の時にご自宅にお伺いし,昔の話を拝聴した時の内容をまとめた記事です。愛知医科大学の岩瀬敏教授のお計らいにより,ご自宅にて2時間ほど「苦労話し」を語っていただきました。
 お伺いした内容を小野寺(川崎医福大)がまとめました。年号などお聞きした通りに記載しましたので,前後している可能性があります。お含みいただきたく,お願い申し上げます。

名古屋大学の学生時代
 父親と弟が慈恵医大に入っていました。しかしながら,どうしても白線に憧れていたので,慈恵医大ではなく名古屋大学に行きました。高木先生(たかき かねひろ,1849-1920,海軍軍医総監,男爵,東京慈恵会医科大学創設者)と父親が親しい間柄でした。小さい頃に高木先生のご自宅へ遊びに連れて行かれたことがあります。後に,高木先生からなぜ慈恵に来なかったのかといわれたことを覚えています。
 若い頃は,内科の医師になるつもりでいました。第2内科の阿久津先生からのお話で,震動を測ってやってくれと頼まれました。名鉄電車から線路が壊れているようなので修理をしたいという依頼がありました。どこが壊れているのか(ガタガタするところ)を調べたい。そして,そこだけレールを換えたらいいというストラティジーを考えていました。大学を卒業するとすぐに大学院にクラス2名だけ(特別院生として)選ばれました。そのため,戦争に行くのを免れました。しかしながら,それでは申し訳ないと考えて,航空医学を研究することにしました。航空医学に携わっているうちに終戦になってしまいました。ですから,その当時から航空医学に関わっていたことになります。
 先に触れた名鉄電車の震動を測っていたらノイズだらけで,線路のどこが壊れているのか,全然わからなかったのです。その時に周波数解析をしてスペクトルを作ることにしました。考えはあっても,どの様にしたらよいのか当時は,分からなかったのです。どの様にしたらよいのかを調べていくうちに,坪井忠二先生の震動論という本(貸本)があって,そこに周波数解析が書いてあるのを見つけました。全部数式が書いてあって,当時は何も分からなかったです。
 その年末に本川先生(本川弘一,東北大学元学長)が書いた脳波の本が出ました。それを見たら,本川先生が脳波を鉛筆と物差しで分析していました。この本は,役に立つと思ったので,すぐに読みました。それから,1ヶ月後だったと思います,勝沼精三先生(当時第一内科教授)(昭和21年頃)から,「ちょっと君来いよ」と言われて先生の教授室に行ったら脳波の研究をしないかと言われました。その当時は,アンプがなかったので,アンプを作らなくてはならないし,ペンライティング(当時の記録機)も作らなくてはならないと思いました。アンプを作らなくてはならないと先生に言ったら,「金原君(金原淳(きんばら あつし,1902-1995,1940年名古屋大学理工学部創設時教授,1949年付属空電研究所所長))に手紙を書くから,これを持って金原先生のところに行きなさい」と言われました。そこに行って学んで,1学期間,学部の学生さんと一緒にアンプの勉強をしました。あの頃,全部まるまるシールドしていました。今考えると,その必要はなかったんですね。なんとか,この1学期中にアンプを作りました。このような経緯で脳波の研究に入ってしまいました。

研究の道に
 昭和23年に名古屋で日本脳炎の大流行がありました。落合先生から「脳波の研究をやれ」と言われました。勝村先生が環境医学研究所の所長をしたので,所長室を使っていいからと言われました。ベッドもあって,寝泊りして研究しました。終戦2年後には,航空医学が環境医学という名称に変わりました。
 その後,本川先生のところに行って,脳波の研究をすることになったんです。しかしながら,その時,すでに本川先生の研究室は,網膜の研究に移っていました。それでも田崎さん(田崎京二,東北大学生理学元教授)と岩間さん(岩間吉也,大阪大学生理学元教授)に脳波を教えていただきました。昭和24年の冬だったと思います。500Wのヒーターを渡されまして,これをどの部屋にも持って歩いて暖をとっていました。昭和25年の1月3~4日に名古屋に戻りました。網膜(コイ)の実験と脳波の実験について習ってきました。お土産のアンプを1つ作って,名古屋に持って帰りました。
 仙台の本川先生の研究室では,コイの網膜を使って実験していました。夕方になるとストーブの前に皆で集まって,うさぎの脳波の話もしました。脳は暗黒体(ブラックボックス)であると表現していました。そして,140億の細胞の1つ1つのビヘービアをみたら,そのうち分かるだろうと話していまた。この話を聞いて,いたく感動しました。本川先生は,毎日実験していました。正月も実験していました。
 正月に名古屋に帰って,勝沼先生に脳波をやるには微小電極で1個1個の細胞をみなければならないと話しました。そしたら,勝沼先生は,微小電極をやるには,ハイインプットインピーダンスのアンプがいるといわれ,そのアンプの価値が3万円(当時)であると話しました。当時,網膜の実験は失敗ばかりだったのですが,勝沼先生(当時学長だった)がちょこっとやってきて,「今月,学長のサラリーをもらったので,その中から3万円やる」と仰いました。この時いただいたことを今は,とても後悔しています。今,自分が教授になって,当時の学長の様にお金を出してあげるのは,大変なことだと気付いたからです。勝沼先生のご配慮で3万円のアンプを日本光電から買いました。買った以上は,成果を上げようと東山キャンパスの(鏡ヶ池の)コイを採って,網膜の実験をしました。コイの網膜はすぐに切り出して,標本にすることができました。網膜ホリゾンタルセル(水平細胞)の電位を狙っていました。毎日,電極をさして実験をやるのですが全然ダメで,祈る様な気持ちでやっていました。ちっとも出ないんです。ある時,勝沼先生が訪ねてきて実験室の外で立ち話をしました。せっかく出した標本なのにと思ったのですが,帰った後で,その網膜に電極を挿してみたら電位が出たんです。オシロに電位変化が出たんです。でっかい反応が出てました。この反応がイントラセルラーレスポンス(intra cellular response,細胞内反応)でした。少し乾いていたからよかったのです。細胞が半乾きになっていて,電極がしっかり固定されていて,電位が出たと当時は思いました。

網膜の研究
 昭和23-24年に東北大(内地留学)に行きました。昭和25年1月に戻ってから,体調を崩してしまい(肺結核),1年間研究を休みました。療養のため,自宅(大分県佐伯市)に帰りました。その間,自宅で療養している時に,「自宅の庭にガマがいたので捕まえて,脳を出してみたらよく見えたんです。」網膜と脳と眼球が付いた標本が作れました。
 この経験に学んで昭和26年から,アイソレートした網膜と脳の実験をしました。これを丹念にやった実験が学位論文になりました。勝沼先生のところに実験結果をもっていったら,「おもしろいから書きなさい」と言われました。札幌の生理学会だったと思いますが,そこで,このデータを発表したんです。勝沼先生が「久野先生(久野 寧,当時名古屋大学生理学教授)に学位論文だから,よく聞いておいてくれと頼んだ」と仰いました。東北大学のイクスメンタルジャーナル(The Tohoku Journal of Experimental Medicine)に出しました。本川先生が英語(論文)を直してくれたんです。それが昭和26,27年頃のことです。ですから,それが終わってから,本格的にコイの網膜の実験をする様になりました。
 コイの実験は,昭和30年(1955年)に京都で開催された生理学会で発表しました。当時の生理学会は,評議員以上しか発表できなかったんですが,なぜか発表できたんです。発表が終わると冨田先生(冨田恒男,当時慶應義塾大学生理学教授)や本川先生から「どの様な方法でデータをとったのかを詳しく話しなさい」と言いました。全部正直に話しました。その後,冨田先生も網膜の実験を行なって,冨田先生は私の電位が「コンパートメントの電位であって,細胞内の電位(S-電位)ではない」と言いました。私と冨田先生の論争が十数年間続きました。2人のディスカッションを見に,他の分野の先生方も立ち見が出るほどに,賑やかな教室(発表会場)になっていました。
 当時,脳外科をやっていた研究者(富田君)が,微小電極の中にリチウムカルミンを入れたらと提案したんです。勝沼先生からリチウムカルミンの話を聞いていたので,早速使ってみることにしました。ところが,リチウムカルミンの分子が大きくて上手に細胞に入れることができませんでした。杉田君(杉田虔一郎,元名古屋大学脳神経外科教授)がアイディアマンで,先端に付けた微小電極を圧力でリチウムカルミンを押し出す様にしたんです。その時にマッチに火をつけてほんの少しガラス管を炙ったら上手に圧力で押し出されたんです。しかしながら,その後すぐに微小電極がバァンと壊れてしまって,このアイディアは結局,使えませんでした。いろいろやっているうちに,きれいに細胞内を染色することができる様になりました。この染色部分を見たら明らかにホリゾンタルセル(水平細胞)であることが分かりました。仲良くなったカルガリー大学の教授からホリゾンタルセルで決まったと言っても,まだ,ダメ(十分な証明ではない)と言われました。彼は,リチウムカルミンが漏れて細胞(ホリゾンタルセル)に入り込んだ可能性もあると話しました。その時にカロリンスカの研究者(Gunnar Svaetichin博士,1915-1981,スウェーデン・フィンランド・ベネズエラの生理学者,ヤング・ヘルムホルツ三色理論を生物学的に実証,Sポテンシャルの名付け親)からも同様な指摘があり,それがホリゾンタルセルの電位である確証にならないといわれたんです。Svaetichin博士は,ベネズエラの大学(ベネズエラ国立科学研究所)に移っていきましたが,「これがホリゾンタルセルの電位であることを主張しているのは,2人だけだね」と話しました。

ベネズエラ国立科学研究所での研究
 彼(Svaetichin博士)からベネズエラに来ないかという話がきました。これを勝沼先生に話したら「行ってきなさい」ということになりました。勝沼先生が文部省に話に行って,在外研究員派遣制度を使って,切符を用意しました。ニューヨーク乗り換えの飛行機で行きました。その時の持ち分は50ドル(当時,1ドルは360円)だけでした。ベネズエラに着いたら研究所長がタラップの下で待っていてくれました。2,3時間後に800ドルを月給だからと言って手渡していただきました。3ヶ月後には,1,200ドルの月給をもらう様になりました。助手の時は,月に1万円ぐらいでした。宿舎は,独身寮でした。食事は,大学の食堂で(チケットをもらって)食べていました。2年間,ベネズエラで過ごしました。2年目に入ってから,名古屋大から環境医学研究所に航空医学(第五部門)を作るから,受け持ちになってくれ(助教授)といわれました。ベネズエラに留まるつもりでいましたので,一度これを断りました。その後,忘れもしない1961年4月12日,ガガーリンが有人飛行に成功しました。宇宙医学は夢があっていいと思い始めた,その時に本林先生(本林冨士郎,元環境医学研究所航空医学研究部門教授,1960年に環境医学研究所に航空医学部門が新設された)から手紙が来て,「金曜日だけ仕事をしてくれればよい,あとは好きにやってくれ」という話がきました。「えーっ」と驚きました。この誘いに乗って,名古屋大に帰ることにしました。

環境医学研究所での航空医学の研究
 帰ったら本林先生が網膜の研究室をきちんと作ってくれました。専用の研究室で,研究室の中にコイの水槽まで揃えてくれました。そのころ,宇宙医学はそれほど興味があったわけではないのですが(特別大学院生として少しかじっただけなんですが)逆さになった時の心電図などをとっていました。昭和36(1961年)年に帰ってみたらコンクリートの部屋でした。シールドを全部やり直しました。低圧タンクで何も(データが)とれなかったのは,電源60Hzのノイズの所為だったんです。電源がむき出しになっていました。それから高所医学をやる様になりました。時々,山と渓谷(山と渓谷社)に書いていました。
 その頃になると水平細胞からの電位がいつもとれる様になっていました。電位変化を見ているうちにグリアニューロンインターラクションの仮説を立てていました。大阪大学の研究者がホリゾンタルセルはグリアだと書いている文をどこかで見た記憶がありました。自分が見ている反応(電位変化)は,ニューロンの反応ではないと思い始めました。また,この考えについても周囲から何をいい出すのかと言われました。学会で話をするとおもしろい考えだとする研究者がいる一方で,批判的な研究者もいました。
 宇宙医学では,登山家たちを対象に低圧タンクでの実験をしていました。1962年に帰ってから,航空医学教室の助教授になりました。その頃の低圧タンクは,標高5,000~6,000mまで引く(減圧する)ことができました。350mmHgぐらいまで引けたんですね。低圧タンクは,2mぐらいの高さがあって,3~4人入れた広さでした。今あるタンクは6人ぐらい入れると思います。アポロの月への着陸は1969年でした。そういうことをやっているうちに,日本でも宇宙の研究に目が向けられる様になり,1970年になって宇宙という(研究)課題が入ってきました。
 【次号に続く】