宇宙航空環境医学 Vol. 53, No. 4, 113, 2016

ランチョンセミナー 2

宇宙の無重力状態による脳の進化について

中里 龍生1,2

1日本大学医学部 病態病理学系臨床検査医学分野
2医療法人健生会 藤岡外科内科クリニック

The evolution of the brain in the weightlessness of space

Tatsuo Nakazato1,2

1Division of Moleculer Diagnostics, Depertment of Advanced Medical Science, Nihon University School of Medicine
2Fujioka Surgeon and Internal Medicine Clinic

日本大学医学部の谷島一嘉教授,五十嵐 真教授のもと宇宙医学講座に籍を置いた私はその後NASA JSC Cardio-Vasculer Lab.に留学し2ヶ月に一度打ち上げられていたスペースシャトルのmissionに5回ほど参加してまいりました。所属していた心循環系研究所では宇宙帰還直後の宇宙飛行士の起立試験の測定を行っておりました。思い出深いスペースシャトルSTS-63のミッションでは世界初の宇宙飛行士が3人おりました。実際に担当したこの起立試験測定では約2週間ほどの無重力状態に暴露された人間は実際に手で触れてみると細かな点で多大な影響を受けている事がわかりました。人は環境の変化に適応して進化してきました。無重力状態への適応は脳にどのような変化をもたらすのでしょうか。1.初めての真の3次元的視覚情報刺激 2.頭部方向への体液移動 3.地上脳のバランス及び重力負荷からの解放。この3点の環境の変化から考えてみたいと思います。1.宇宙空間に行き人がコウモリのように天井からぶる下がっている光景を生まれて初めて観る事により視覚情報が脳を混乱させ突発的に嘔吐してしまう事が動揺負荷に対する訓練がされているベテランパイロットでも起こることは良く知られている事です。視覚情報による脳混乱説これが宇宙酔いの原因の一つとされています。では地上ではどうでしょう。普通我々は話をする時に椅子に座り相手の顔や眼を見てお話しします。生活のほとんどがそのような状態であれば地上の我々の脳の空間識(縦,横,高さ)に対する高さの幅はあっても身長の高さに収まるはずです。(その人の経験度により多少の幅の違いはあるでしょうが)。宇宙酔いが引き起こされるのは本来我々の地上の脳の空間識(かなり高さの狭い平面的なもの)で獲得した視覚刺激の記憶であり真の3次元的視覚刺激は得られていないと考えられます。さらに無重力ではこの脳の空間識の高さに対する幅が瞬間的に取り除かれて無限大に広がります。この時,地上では体験し得ない真の3次元としての視覚情報が初めて堰を切ったように脳に流れ込みます。(無重力の映像は想像はつきますが実際に観た事はない。)新たな視覚情報刺激が空間識の再構築をここから始めるでしょう。第2に頭部方向への体液移動があります。抗重力筋(特に背筋)の委縮はよく知られていますがそこへ行く必要のない血液は必然的に脳へ流れ込みます。脳血流量の増加です。神経細胞回路への影響が考えられます。第3に重力下でバランスを取る必要のない脳は解剖学的に同心円状に膨らむことを許されます。同時にこれら3つの変化が脳に与える影響は解剖学的変化,新たな神経回路の構築,その結果新たな3次元的な物の捉え方(脳の空間識の再構築)を生み出すきっかけとなるはずです。ではずっと人類は宇宙に滞在しなくてはいけないのでしょうか? 地球と火星の重力比は1:0.385です。この軽重力状態を考えると上記の条件のいくつかがそろいます。そこから新たに脳が進化する可能性が出てきます。勿論数万年を経て徐々に変化する事でしょう。宇宙や火星の無重力及び軽重力状態に行くと脳が進化するという仮説は『何故人類は宇宙を目指すのか?』という命題に対する一つの答えになるかも知れません。