宇宙航空環境医学 Vol. 53, No. 4, 85, 2016

シンポジウム

「御手洗玄洋先生 追悼シンポジウム」

2. スペースシャトル利用による鯉の宇宙酔い実験

森 滋夫

名古屋大学 名誉教授

Space Motion Sickness Experiment of Carp Fish Using Space Shuttle

Shigeo Mori, M.D.

Emeritus Prof., Nagoya Univ.

1992年(平成4年)9月12日から8日間飛行したスペースシャトル・エンデバー号では,搭載された実験室(Spacelab)の半分を借り切って日本側34の実験テーマを実施するという画期的な宇宙実験(FMPT;First Material Processing Tests)が遂行された。宇宙開発でも欧米に遅れないようにと考える国の意向,それに好景気および国民の興味が反映されたものだ。
 宇宙開発事業団(NASDA)は,1979年(昭54)にスペースシャトル利用委員会を設立。御手洗先生はその委員を最初から定年退官(1984年)まで務め,我が国の宇宙実験の進展に尽力。特に,FMPTでは,宇宙開発においても日本の高い能力を外国に示すことが肝要との思いから,自分自身でも実験を提案。そのテーマは採用されたが,実現が早くても1988年の予定,自分の定年が間近く,責任もって遂行できないとの理由で,実験の代表研究者を当時助教授であった私に託された。
 実験の着眼点 水中の魚は,耳石器官からの重力情報と目からの視覚情報のみで姿勢をきめる。いわゆる“背光反応”であり,ドイツの生理学者von Holstが1935年〜1950年に発表した。御手洗先生の記憶にあったこの旧い文献が,この宇宙実験の出発点だった。宇宙の無重力状態では,魚の姿勢は光の方向だけで決まるはず。もしそうならば,姿勢の制御様式が変わるのだから,背光反応にも,またその中枢(魚では小脳)活動にも順応性変化が観察できてよいはず—がアイデア。
 なぜ鯉? 御手洗研究室では,遊離網膜実験のため,常時,10匹以上の成鯉が飼われ,鯉の扱いには慣れていたので,当然のごとく鯉が候補となった。鯉の視覚はヒトに劣らず,耳石器官や三半規管(合わせて前庭器官)も小脳も良く発達している。小脳脳波の安定な記録には鯉頭部に超小型前置増幅器を載せる必要があった。これを解決したのは,臼井支朗先生(当時,豊橋技術科学大学の助教授;講演4の演者)と同大学の(故)中村哲郎先生。最先端のICチップ作製技術を駆使して,究極の防水型前置増幅器(8×8×4 mm,0.7 g)が完成,25 cm以上の鯉なら自由に泳げた。高木貞治技官が鯉の頭部に歯科用セメントで取り付けた。
 鯉用宇宙実験装置の開発 鯉の宇宙実験に与えられた空間が60 W×40 H×60 Dcm。そこに体長25〜30 cmの鯉を2匹,2週間は健康に生かしたい。無重力下で密閉された水容器の鯉に,心臓手術に使う人工肺が利用できないか,が御手洗先生のアイデアだった。手作り密閉水路に,センサー類,小児用人工肺を組み込み,鯉を入れて数値を測ると,水流量1 L/分以上あれば,最大4匹まで酸素供給が可能。高林彰助手が,最新式のテープ読み取り方式コンピューターを活用して得た結果だった。彼はまた,頭骨に空けた小さい穴から鯉の耳石をピンセットでつまみ出す技術を修得してくれた。最終的に,耳石摘出鯉と正常鯉のそれぞれ1匹を搭載することにした。
 何がわかった? 飛行開始の2日目,耳石摘出鯉の小脳電極が原因不明に脳を損傷し,脳波導出ケーブルが躯幹に巻きつき,この鯉の記録を中止。正常鯉では予定通り1週間の実験を遂行できた。正常鯉の背光反応と小脳脳波活動を経時的に追ってみると,光と重力で姿勢を決める姿勢制御の神経回路が,光だけでも姿勢を制御できる回路に組み変わるまで3日間ほどかかっており,またそのように再構築を促すための小脳活動はほぼ24時間遅れで賦活されることから,宇宙飛行士が悩まされる宇宙酔いの成因については「感覚混乱説」の考え方が妥当と結論できた。鯉も宇宙酔いになっていたかもしれない。準備開始からおよそ15年が過ぎていた。
 日本が誇る水棲生物実験装置 1992年の鯉搭載のために開発された装置は,1994年に,メダカ,キンギョ,イモリ,1998年にはガマアンコウを搭載し,現在では,世界の研究者が共同利用できる水棲生物実験装置として国際宇宙ステーション(ISS)「のぞみ」に搭載され,2012年にはメダカ,2014年にはゼブラシッシュの実験に利用されるなど,世界に誇れる装置となっている。