宇宙航空環境医学 Vol. 52, No. 3, 27-30, 2015

追悼

御手洗玄洋先生を偲んで  
写真1. 御手洗玄洋先生遺影
森  滋夫  
 
名古屋大学名誉教授  
   

 本学会の名誉会員であり,1991〜97年 (平成3〜9年)には理事長を務められた名古屋大学名誉教授・御手洗玄洋先生が,2015年(平成27年)6月28日,94歳でご逝去されました(写真1)。4月に,多発性胃潰瘍による大量出血があり,立ち直られたのですが,6月に肺炎で再入院,急逝されました。哀惜の念に堪えません。
 御手洗先生は,大分県の生まれ。旧制6高から名古屋帝国大学医学部へ,終戦後の混乱の中,1946年(昭和21年)9月に卒業,第1内科に入局。1948年(昭和23年)に名古屋大学付置の環境医学研究所勤務となり,以後,定年まで,同研究所に在職されました。
 環境医学研究所は,1943年(昭和18年),B29迎撃に立ち向かう我が国のパイロットの人間研究などを目的として創設された航空医学研究所が前身です。終戦に伴っていったんは廃止されたのですが,1946年(昭和21年)に4部門(地理疾病学,食養学,気象医学,職業性疾患学)からなる環境医学研究所として再発足。さらに,1960年(昭和35年)に第5部門(航空医学),1967年(昭和42年)には第6部門(航空心理学)が増設されたのですが,時代はもはや宇宙。1961年(昭和36年),旧ソ連のユーリー・ガガーリンが宇宙を初飛行し,1969年(昭和44年)には,アメリカのニール・アームストロングが初めて月面に降り立ちました。
 御手洗先生の第5部門(航空医学)教授就任が1967年(昭和42年)。ほとんど時を同じくして,東京慈恵会医科大学に宇宙医学研究室が創設され,初代主任教授となられたのが佐伯ひさし先生。お二人が,日本の宇宙医学研究20年の遅れをなんとかしなければ,と話し合っておられる姿をなんども目にしました。当時,私は,宇宙医学に憧れ,金沢大学医学部を卒業して御手洗研究室(航空医学部門)の門を叩いた大学院の2年生。日本の宇宙医学研究の草創期を肌で感じる幸運にめぐまれました。
 
 御手洗先生には研究者の顔が二つありました。一つは視覚生理学者としての顔です。
 助手になってすぐ,東北大学生理学の本川(弘一,元学長)教室に内地留学し,視覚研究に関する電気生理学手技を学ばれ,1951年(昭和26年)からは,名古屋大学眼科教室と共同でヒト網膜電位の研究。また,コイ遊離網膜を用い,光刺激で過分極するS-電位(発見者 G. Svaethichinの名に由来)の記録に成功し,これを生理学会に発表されたのが1955年(昭和30年)のこと。その翌年,助教授に就任されたのですが,それからの10数年は,このS-電位の発生源について,細胞外電位とする慶応大学生理学の冨田恒男先生(1908−1991年)のグループとの間に激しい論争がつづき,日本生理学会のエポックとして長く語り伝えられてきました。冨田先生は,1950年に単一の視細胞電位記録に初めて成功したことで既に世界的に有名でした。
 S-電位起源は,御手洗先生が,1959年(昭和34年)から2年間,ベネズエラ国立科学研究所のSvaetichin博士のところに留学し,帰国後に,リチウムカルミンを詰めた微小電極で,S-電位が水平細胞内電位であることを同定。これが世界に認められて決着を見たのですが,この両グループの論争が国内外の若手研究者を啓発し,今日の網膜内視覚情報処理のメカニズム解明をもたらしたといっても過言ではないでしょう。ちなみに,視細胞には色覚三原色に対応する三種の細胞があり,S-電位には赤緑,黄青の四原色説に対応する細胞が見つかることから,色覚の三原色説,四原色説論争は過去の遺物となりました。
 また,ベネズエラ留学中,水平細胞が過分極性の光反応性とそれにより色光情報の変調を行なうことから,そのグリア細胞的性質と神経細胞への干渉作用を洞察し,ニューロン-グリア間干渉仮説を提案されました。当時,サイレント細胞といわれていたアストロ細胞からも膜電位が記録できる事も示され,この結果は,1968年(昭和43年)第24回国際生理学会議にいち早く発表されました。こうしたグリアの研究はその後,御手洗研究室で大学院を過ごした東田(金沢大学;子どものこころの発達研究センター)らにより今日に至るまで続いており,昨今のグリア研究隆盛のパイオニア的研究ともなりました。
 余談ながら,御手洗先生と冨田先生の交友はその後も長くつづき,それが,私のYale大学眼科視覚科学教室への留学(1973〜75年)のきっかけとなり,私にとっては両先生ともに大切な恩師となりました。冨田先生はそこの教室の客員教授で,私の留学の最中,冨田先生の「視細胞電位による三原色説の同定」がノーベル賞候補になったと噂が流れ,ワクワクしたものです。 
 御手洗先生が第5部門(航空医学)教授に就任された1967年(昭和42年),私が大学院生になった1966年(昭和41年)の頃は,コイ遊離網膜を使った網膜生理学の開花期でした。先生は,夜中12時前に帰宅される事はなく,一日に何匹ものコイの網膜を遊離して研究され,コイ網膜の暗順応を待つ間は,教室員と囲碁を楽しまれていました。やがて,当時,工学分野で開花した情報処理理論を網膜の視覚信号処理に当てはめようとする若者たち,眼科臨床に役立てようとするもの,視覚心理学への応用を目指すもの,等々が参集。実験の後,夜中まで議論がつづくのが日課となっていました。門前の小僧の耳学問,知らぬ間に最先端の視覚生理学の知識が身に付いた私でした。
 キャノンカメラの創設者は御手洗先生の伯父。浅草観音の近くでレンズを磨いていた戦前のキャノンはカンノンカメラと言う名の会社であったと聞かされたことがあります。なるべくその伯父さんには迷惑をかけたくない気持を感じていました。一度だけ,コイ遊離網膜の単色光刺激装置をもっとコンパクトにしたいと,その伯父さんにお願いして技術的な支援を求められたことがありました。いや---もう一度だけ。どの国際学会だったか忘れましたが,開催運営費が十分に集まらず,ついに伯父さんに寄付をお願いに出かけられたことがありました。世俗に染まることを嫌い,1日最低1実験がモットーの根っからの研究者でした。
 御手洗先生のもう一つの顔が,宇宙医学研究者としての顔です。
 名古屋大学環境医学研究所の第5部門として増設された航空医学部門に教授として就任されたのが1967年(昭和42年)のこと。設備は,4人まで入れる古い低圧実験装置とアームの長さ1.2メートルの遠心加速度負荷装置のみ。時代は航空医学から宇宙医学へ,新しい研究が模索されていました。
 1966年(平成41年),御手洗研究室の最初の大学院生となった私に与えられた課題は,「ウサギで頭尾方向に遠心加速度を負荷すると加速度停止時に異常な発作波が出現する。ウサギの下半身を陰圧にして急に解除したときにも似た発作波を見ることができる。この発作波の起源はどこにあるか探ってみなさい」,というものでした。極限状態の心機能と動静脈循環,てんかん脳波の発現機序,など文献をあさっても混迷が深まるばかり。悩み焦る院生を,距離をおいて見守るのが御手洗流。次に入学してくる院生もその次に入ってくる院生も,自分で考え自分で道を切り開いていく力を身につけていきました。御手洗先生の研究に対する情熱,真摯で謙虚な姿勢,を毎日見ているだけで「研究の何たるか」を感じ取ることができました。院生だけでなく,御手洗先生を慕って集った向学の士が学び取ったのも結局はそれでした。
 一方,朝鮮戦争がもたらした特需景気は日本の経済を潤し,大学には大型実験装置が次々と設置されるようになり,御手洗研究室にも,1979年(昭和54年)に大型の低圧・低温環境シミュレータが設置(更新),翌々年には準無重量実験水槽が設置されたのですが,人員は増えないので,研究者の負担は増えるばかり。御手洗先生も,海水パンツ姿で実験水槽に入り実験を先導,それが終わってから鯉の遊離網膜実験と多忙をきわめました。
 さらに,1970年代後半からは,NASAの呼びかけに応じて,日本でもスペースシャトル利用の宇宙実験計画が検討されるようになり,御手洗教授も,科学技術庁の宇宙開発委員会の委員に選任され,自らも宇宙実験テーマを提案されました。1988年(昭和63年)のフライトを目指し,コイを宇宙にもって行き,光の刺激方向に対し姿勢を制御する背光反応を利用して,無重力下での姿勢制御の乱れを,小脳脳波とともに調べるというものでした。御手洗先生の定年退官が1984年(昭和59年)であったことから,助教授である私が中心となり進めることになりました。実際には,予定が遅れに遅れ,飛んだのは1992(平成4)年9月12日から20日までの8日間,毛利宇宙飛行士の最初の飛行でした。日本から搭載された12テーマのライフサイエンス系実験はいずれもユニークで,欧米の宇宙実験に見劣りしないものでした。このエンデバー打ち上げには,御手洗先生ご夫妻がケネディスペースセンターにも出向かれました。実に満足そうでした。写真2は,そのとき,フロリダ・オーランド空港に出迎えたときのものです(1992年9月9日)。
 御手洗先生は,1984年(昭和59年)の退職後,中京大学体育学部大学院へ移られ,生理学の教育とスポーツ選手などとの運動生理学の研究を指導されました。ゴルフやスキーも始められ,旧六校時代,剣道に打ち込んだスポーツマン魂がよみがえったようでした。1989年には体育学部長,定年の1992年には学長代行をされ,やはり名スポーツ選手を育ててこその中京大学,と意気軒昂でした。学生たちに人気があり,時々自宅に遊びにきてくれる,と満面の笑みで話しておられました。退職後も非常勤講師として院生の指導を続けられていましたが,1999年(平成11年)に奥さんを脳出血で亡くされ,体力的にも限界を感じられたのか,しだいに,書道,俳句の世界に遊ぶようになられました。
 そういえば,先生は若い頃,肺結核のため三重県津市で療養されたことがあります。たまたま同じく病気療養中であった山口誓子に俳句を師事されました。先生が,ベネズエラ・カラカス市を二度目に訪問された折に詠まれたお気に入りの句が残っています。
    見返れば 
      ハイビスカスの 
           更に紅
 本当に最後まで失せることがなかった学問への情熱はまさに驚異です。ガイトンの「生理学」の翻訳(エルゼビア ジャパン,2010)やその改訂に燃やされたあのエネルギーは,いったいどこに残されていたのでしょう。まったく奇跡です。数年前から,ほぼ年に一度,門下生や仲間が「御手洗先生を囲む会」を開くようになっていました。熱く議論した当時を懐かしむ話に,また,最近こんな風に研究が広がったといった門下生の話に,御手洗先生の瞳がキラキラ輝いていました。
 お亡くなりになる1年前,2014年(平成26年)の5月,93歳のとき,金沢で,環境医学研究所旧第5部門の研究に関わった仲間が集まり,御手洗研究室の学問的広がりを振り返る目的でミニシンポジウムが開かれました(幹事役:東田)。写真3は,そのときのご講演の姿です。先生はシャキッとした態度で最初から最後まで研究発表を聞かれ,質問もされました。その夜,料亭での芸子さんを交えてのお遊びのゲームにも負けん気を出されるなど,まだまだお元気な先生のお姿でした。「楽しかった」とそのときのお話をベッドで繰り返されていたと,告別式で聞き,和やかな気持でお見送りすることができました。
 ちなみに,このミニシンポジウムの発表演題はつぎのようなものでした。
 ・ グリア今昔 
  御手洗玄洋(名古屋大学 名誉教授)
 ・ 御手洗研究室での経験が導いた私の選択的脳冷却研究
  永坂 鉄夫(金沢大学 名誉教授)
 ・ 神経回路網によるマハラノビス判別関数の学習
  伊藤 嘉房(愛知医科大学 客員教授)
 ・ 宇宙酔いのメカニズムを探る
  森  滋夫(名古屋大学 名誉教授)
 ・ 宇宙医学におけるサカナの前庭機能研究
  高林  彰(藤田保健衛生大学医療科学部 客員教授)
 ・ ERGから見出された3つの新疾患
  三宅 養三(愛知医科大学 理事長)
 ・ サカナから学ぶラット視神経の再生
  加藤  聖(金沢大学 名誉教授)
 ・ コイ網膜から人工視覚へ
  八木 哲也(大阪大学大学院工学研究科 教授)
 ・ 網膜水平細胞とERG研究の40年を振り返って
  臼井 支朗(豊橋技術科学大学エレクトロニクス先端融合研究所 特任教授)
 ・ 行動からわかる記憶強化の分子機構
  榊原  学(東海大学開発工学部生物工学科 教授)
 ・ 私の記憶研究:グリア・ニューロブラストーマから社会性障害マウスへ
  東田 陽博(金沢大学子どものこころの発達研究センター 特任教授)
 残されたご遺族は,お嬢さま方3人のご家族です。心からご冥福をお祈り致します。
(2015年9月10日 記)

写真2. 御手洗先生ご夫妻をフロリダのオーランド国際空港に迎える(1992.9.9)

写真3. ミニシンポジウム金沢で最後のご講演(2014.5.15)