宇宙航空環境医学 Vol. 52, No. 1, 3-4, 2015

追悼

酒井敏夫先生を偲んで  
吉岡 利忠  
 
弘前学院大学学長/聖マリアンナ医科大学客員教授/青森県立保健大学名誉教授  
   

略歴

1920(大正 9)年 6月21日神奈川県茅ケ崎市にて誕生
1946(昭和21)年 4月 東京慈恵会医科大学卒業
1948(昭和23)年 4月 東京慈恵会医科大学生理学教室助手
1951(昭和26)年11月 横浜国立大学学芸部助教授
1958(昭和33)年 3月 ロックフェラー大学留学
1960(昭和35)年 3月 横浜国立大学学芸部教授
1965(昭和40)年 4月 東京慈恵会医科大学第二生理学教室教授
1986(昭和61)年 3月 定年退職
1986(昭和61)年 4月 東京慈恵会医科大学名誉教授
1988(昭和63)年 8月 日本宇宙航空環境医学会会員
1991(平成 3)年10月 日本体力医学会名誉会員
1991(平成 3)年11月 日本宇宙航空環境医学会評議員
  日本宇宙航空環境医学会監事
1994(平成 6)年 3月 日本生理学会特別会員
 勲三等瑞宝章受章
1994(平成 6)年11月 日本宇宙航空環境医学会理事
2004(平成16)年11月 日本宇宙航空環境医学会名誉会員
2012(平成24)年 5月23日自宅にて逝去(享年91歳)
2012(平成24)年 6月19日正五位に叙せられる


  1920(大正9)年6月21日に神奈川県茅ケ崎市にお生まれになられた酒井敏夫先生は,2012(平成24)年5月23日午前10時5分に茅ケ崎のご自宅においてお亡くなりになりました。享年91歳でした。
日本宇宙航空環境医学会における先生のご活躍を含め上記略歴にまとめて記載いたしました。
このご略歴にあるように酒井先生は東京慈恵会医科大学の歴史とともに歩まれたと言ってよいでしょう。ご定年前には「慈恵の庭にありて」{1986(昭和61),鶴岡印刷}という冊子を上梓し,これまで先生の半世紀にわたる活躍を纏められています。さて,先生が宇宙航空環境医学分野の研究に進まれたきっかけは,少し歴史をたどることになりますが,東京慈恵会医科大学第4代学長・理事長でありました細菌学教授の寺田正中先生が日本航空医学心理学会を創設しその会長・理事長になられたことに端を発すると思われます。その創設は1955(昭和30)年のことでありました。細菌学,微細構造学そして航空医学,一見なんの関係もないこの三分野でありますが,将来の宇宙医学,環境医学の先鞭をつけたものでした。さらにそれ以前,慈恵医大生理学教室創設期にあった浦本政三郎教授が,1933(昭和8)年に高山における人体機能に関する研究に取り組み航空医学の必要性を示したという歴史的背景もあり環境医学や航空医学が酒井先生の研究分野となり教室員とともにいくつかの貴重な業績を報告するに至っております。
慈恵医大生理学教室は第1および第2と二つの講座に分かれてからほぼ70年を経過し,その間に慈恵医大に創設された日本唯一の宇宙医学研究室(現:宇宙航空医学研究室)も50年近くの歴史を刻むことになります。1995(平成7)年,本研究室は研究内容を踏まえ生理学講座第2の傘下に入り,酒井教授の後を継いだ栗原敏教授により運営されました。現在は須藤正道教授が担当し多くの業績を出し国内外から高い評価を受けており,日本宇宙航空環境医学会の事務局としても活動しております。
酒井先生は第2生理学教室主任教授となられてから,医学教育に熱心に取り組み医療人として活躍できる人材を多数育成されました。そのユニークな試みの一つとして学生との「昼食会」を上げることができます。勉学のこと,医学生としての姿勢,学生からの要望,将来のことなど,教室員とともに昼食を囲む「昼食会」では会話が盛り上り,教員と学生との素晴らしいコミュニケーションが形つくられていたことを思い出します。その後,昼食会に参加した学生から大学学長,教授,教育者や研究者,そして本学会の理事長(飛鳥田一朗,栗原敏,加地正伸)など多くの人材を育成されました。また,本学会大会長(総会会長)経験者として,関口千春(第42回),吉岡利忠(第43回),栗原敏(第50回),細谷龍男(第54回),小野寺昇(第59回),津久井一平(第61回大会)らも昼食会参加者です。このような「昼食会」を他医系大学のスタッフになった昼食会参加者が導入されたと聞いております。酒井先生の人を育てる力を感じせざるを得ません。また,一年間の生理学教育の要約を「Process」という小冊子にまとめ,進級時に学生に配布するなど,個々の業績・経過・歴史を大切にする姿勢を与えて頂きました。さらに,日本体力医学会においても要職に就き,その機関誌である「体力科学」の逐次発行にご尽力され,日本生理学会では常任幹事,編集委員長などを歴任され,生理学用語集,日本生理学教室史(上下巻)などの書籍を編纂されました。その編集,執筆の姿を見ながら酒井教授の下で育った教室員は,論文や文章を作成することそしてその締め切り日を守ることなど,文章を書くのが億劫にはならない姿勢が身に付いたようです。
1986(昭和61)年3月に退任されたのち,東京慈恵会医科大学から名誉教授の称号が授与され,東京慈恵会総合医学研究センター長,大正製薬(株)技術顧問,日本航空(株)特別医学研究顧問などを歴任されました。ワインの産地で有名な米国カリフォルニアのナパにある日本航空パイロット育成所では,熱心にパイロット養成のための人体生理機能などの講座を持っていたことを思い出します。先生は,また,書や絵画に親しまれ東京銀座や茅ケ崎市において数回にわたり個展を開催されており,それを編集した冊子も私をはじめ弟子たちに配布されておりました。絵画の印刷では色校正など詳細にチェックし妥協を許さず,まさしくプロフェッショナルな芸術家でありました。
私は,学生時代に生理学学生班の一員として,酒井敏夫先生ならびに2014(平成26)年1月亡くなられた中野昭一先生の指導を受けた者として僭越ですが追悼文を書かせて頂きました。
本文中の個人名には敬称を省略していることをお許し頂くとともに,作成に当たっては東京慈恵会医科大学栗原敏理事長,須藤正道教授のご協力を得ましたことに対し深く感謝いたします。

写真1 2004(平成16)年11月7日(日)東京銀座
       酒井先生“書”の個展

写真2 2010(平成22)年6月20日(日)
    酒井先生90歳のお祝いの会 横浜中華街
    前列中央;酒井敏夫先生・綾子先生,左側;吉岡利忠(弘前学院大学),右側 ; 稲葉秀子
    後列左より ; 飛鳥田一郎(JAL),國分眞一郎(日大医),栗原敏(慈恵医大),足立譲,本間生夫(昭和大医),成澤三雄(国際武大),小西真人(東京医大)