宇宙航空環境医学 Vol. 52, No. 1, 1-2, 2015

追悼

増田允先生を偲んで  
小野寺 昇  
 
川崎医療福祉大学  
   

略歴

 
1919(大正 8)年 2月16日神奈川県鎌倉市にて出生
1945(昭和20)年 9月 東京慈恵会医科大学卒業
1948(昭和23)年 7月東京慈恵会医科大学第一生理学教室助手
1965(昭和40)年 5月東京慈恵会医科大学教授
1975(昭和50)年 4月 第19回日本医学会総会(京都)特別講演
1976(昭和51)年 4月 東京慈恵会医科大学第一生理学教室主任教授
1976(昭和51)年10月 日本宇宙航空環境医学会理事
1977(昭和52)年10月 日本宇宙航空環境医学会編集委員長
1977(昭和52)年11月 東京慈恵会医科大学体力医学研究室主任教授
兼務
1984(昭和49)年 4月 東京慈恵会医科大学客員教授
1984(昭和54)年 4月 鎌倉女子大学教授
1988(昭和58)年日本体力医学会名誉会員
2011(平成23)年 2月21日逝去(享年92歳)


 増田允先生は,昭和20年9月に東京慈恵会医科大学をご卒業になりました。昭和40年5月に東京慈恵会医科大学の教授となり,昭和51年4月から同大学第一生理学教室主任教授に就任されました。日本宇宙航空環境医学会に昭和31年1月16日に入会され,その後,昭和51年から平成3年までの15年間を理事,昭和52年から昭和60年までの8年間を「宇宙航空環境医学」の編集委員長,昭和60年から平成6年までの9年間を編集顧問,昭和54年の第25回日本宇宙航空環境医学会総会では総会会長として,本学会の発展に大きく貢献しました。
 増田允教授は,第15回日本医学会総会のシンポジストとして「スポーツの医学的効用と障害を聴く」を講演しました。第19回日本医学会総会(京都)では,特別講演を行いました。当時,医学会総会の特別講演の演者がいかに特別であるのか,知る由もありませんでした。特別であることの学術的な意義をやっと理解できる年齢に(自分が)漸く辿り着きました。
 増田允教授のご専門は,体温調節です。横浜国立大学の内野欽司教授(故人)と運動と体温・発汗に関する研究成果を多くの論文,著書で発表しています。宇宙航空環境医学,体力医学に関する分野において著明な研究業績を残されました。
 増田允教授の主任教授室は,いつも和やかで,そして賑やかでした。宇宙医学研究室佐伯〓主任教授と臨床検査医学教室井川幸雄主任教授が集い,笑い声が絶えませんでした。静かな時間もありました。長考の時間であった様に思います。
 当時,第一生理学教室の助教授であった馬詰良樹先生のアイディアで増田允先生の主任教授就任10周年記念シンポジウムを第一生理学教室主催で開催することになりました。全員が英文で抄録を書き,英語で発表することになりました。これも馬詰先生の発案です。私など英文で抄録を書くのがやっとなのに,発表まで英語と聞いて尻込みしたものです。今でも,私の手元に緑色と黄色の表紙のMASUDA SYMPOSIUMの抄録があります。
 そのお返しだったと記憶しています。増田允教授のご自宅に教室員全員がお呼ばれされることになりました。鎌倉市台に増田允教授のご自宅はありました。ご住所の通り小高い森(台)の中に江戸時代の佇まいと表現すると分かりやすい一軒がありました。家屋に対してあまりにも広い庭が印象に残っています。お酒が進み,庭に出てのアクティビティー(裸足で走り回り,転んでどろんこになった)が始まりました。全員のワイシャツがドロだらけになり,奥様が全員分のワイシャツを出してくださったこと,恥しいと思いつつも,ワイシャツをお借りし,反省しつつ,静かに帰路に着いたこと覚えています。
 増田允教授の「お別れ会」の時,ご長男様から増田允教授が慈恵医大を殊のほか好きだったことをお聞きしました。お孫さんたちにも慈恵医大のことをいつも嬉しそうに話して聞かせていたとお伺いました。
 増田允教授は,お酒の増幅とともに,いつも「read old paper」を口にされていました。先人のアイディアの中に新しい発見に結び付く「カギ」が隠されている。「古い論文をしっかり読みなさい」と教えをいただきました。この教えが正しいことを侃侃たる思いで教訓にしています。
合掌

写真1 増田先生のお祝いの一コマ
     左より ; 名取先生,増田先生,馬詰先生,内野先生

写真2 MASUDA SYMPOSIUMオープニング

写真3 増田先生のお祝いの一コマ