宇宙航空環境医学 Vol. 49, No. 4, 82, 2012

一般演題

24. 我が国の患者空輸の黎明と航空医学研究への展開

西山 靖将1,藤田 真敬2,緒方 克彦3,立花 正一2

1防衛医科大学校 防衛医学講座
2防衛医科大学校 防衛医学研究センター 異常環境衛生研究部門
3防衛医科大学校

The dawn of aeromedical evacuation and development for aviation medicine in Japan

Yasumasa Nishiyama1, Masanori Fujita2, Katsuhiko Ogata3, Shoichi Tachibana2

1Department of Military and Disaster Medicine, National Defense Medical College
2Division of Environmental Medicine, National Defense Medical College Research Institute, National Defense Medical College
3National Defense Medical College

自然災害が頻発し四方を海に囲まれたわが国では,災害時の医療支援活動や遠隔離島からの急患搬送に航空機が大きな役割を担っている。今回,黎明期の患者空輸や航空環境における医学的検討について調査した。欧米では1903年のライト兄弟による有人初飛行以来,加速度的な航空機の開発が進み,第一次世界大戦では航空機の威力が実証されニーズは更に高まった。そして航空機事故のパイロットを救出するため患者空輸機が整備されていった。一方,わが国は気球の運用を行いつつも1910年に徳川·日野両大尉らが初の動力飛行に成功し以降航空機が軍事作戦に応用されていった。そして戦勝国となった日本は1926年にドイツ製新型機ユンカースを入手し,寺師義信軍医によって改造され初めての患者空輸機が作られた。患者のみの搬送を行う欧米の患者空輸に比較すると軍医も同乗する試みは斬新であった。寺師義信は航空生理学を専攻し,所沢飛行学校付軍医として,操縦手として航空身体検査の整備に寄与した軍医であった。その後,国民からの募金で航空機を購入する献納機事業が始まり納められた航空機は愛国号と名付けられた。1931年にドイツ製旅客機ドルニエ·メルクールを輸入し,寺師軍医らが中心となって本格的な患者空輸機に改造し愛国2号と命名された。エンジン排気熱を利用した機内暖房装置,振動や騒音吸収のためにマイカルタ(フェルト生地と皮革を重ね合わせたもの)を病室壁に貼るなど患者の快適性を重視していた。酸素吸入や点滴も受けられ,また医薬品や衛生資材の収納庫やトイレを設置するなど,搬送中でも同乗する軍医や看護兵が処置できるように随所に工夫が凝らされた。やがて全国民的な献納機運動の高まりから,様々な機種が献納され患者輸送機に改造された。次々と患者空輸機の導入に伴い空路網も整備され,1931年の満州事変では民間航空機も合わせて1,500名にものぼる患者が航空機で搬送された。寒冷地では夏になると凍結していた地面が泥濘化し,重量の重い航空機は離発着に支障が生じたのでより軽量の航空機が求められた。1939年の国境紛争では後送患者3,352名中905名 (27%)を延767機で空輸した。欧米では多発する航空機事故のため患者空輸に慎重だった当時としては,この患者空輸作戦は画期的な成果であった。その背景にはフォックス·モスのような小型軽量の航空機が前線近傍から後方地域までの端末輸送を担った効果が大きく,各種航空機の性能を上手く使い分けた着意は特筆に値する。戦況の変化に伴い高高度で飛行できる作戦機を運用する必要から,高空環境における人体への影響を調査し医学的対策を講じるための検討が始まり,低酸素·低圧環境や加速度による人体影響の評価,航空被服や酸素マスクなどの装備品の開発研究も行われた。1938年,約1年の工期をかけて富士山頂に研究施設が建設された。自家発電,長距離通信装置,生理·生化学実験設備や動物小屋を有し,長期間の燃料や食糧も備蓄され越冬下の実験が可能であった。標高3,770メートルほどの高山環境を活用した航空医学の研究が行われた。開設にあたっては,寺師軍医がヨーロッパで得た最新医学の経験が生かされたであろう。このような事から,わが国は航空機後発国ながらも不断の努力により,航空列国に劣らぬ知識や技術を有していたものと推察された。