宇宙航空環境医学 Vol. 47, No. 2, 13-14, 2010

追悼

大島正光先生を偲んで

谷島 一嘉

佐野短期大学名誉学長/日本大学名誉教授


 先生のことを語るのは辛く,断腸の思いである。あまりにも我々,私にとって永遠の先達であり,恩師であった。今もあの暖かい笑顔が目に浮かぶ。
 大島先生は大正4年,1月7日に群馬県でご出生された。旧制の太田中学を当時破格の4年で飛び級卒業され,一高に入り,東京帝国大学医学部に入学された。この辺の話はあまり詳しくお聞きしていなかったが,お別れの会での日野原重明先生のお話によると昭和13年ご卒業後柿沼内科に入局され,内科学会でご一緒にお仕事をされたと伺った。その後軍医を志願されて横須賀の海軍本部付きで航空医学,潜水医学の知識を研鑚し,当時先端の実験を重ねられたようである。軍医中佐で除隊されたと聞く。
 戦後は労働科学研究所に入られ,フリッカー値を使った疲労の研究は名高い。橋本邦衛先生との名コンビもこの頃誕生したものであろう。昭和33年,長年航空医学の振興に努力された功が認められて,当時の航空自衛隊に新設された航空医学実験隊の初代隊長に就任された。自衛隊嫌いの東大に珍しく,昭和38年,東京大学に新設された医用電子研究施設の施設長に任命されて東大教授になられた。このあたり昭和40年頃に,日本で最初の宇宙医学という本を出版された。昭和33年にソ連が初の人工衛星を打ち上げて,36年には史上初の有人宇宙船スプートニクを打ち上げ,その後ケネディーの名演説に端を発した有名な米ソの宇宙開発競争が始まったばかりで,日本ではまだ宇宙開発事業団すら設立されていなかった時代である。まさに大島先生の慧眼としかいいようがない。
 東大時代の先生は,まさに温和の一言につき,自衛隊時代の方々にお聞きした厳しさは微塵も無かった。何をやりたいといえば,“そうか”と仰り,自分の好き放題やった感じである。昭和42年にやっと設立された宇宙開発事業団から昭和49年ごろに医師を一人推薦してほしいといわれて私に話が来たときも,“行ってくれるか?”だけであった。当時の名はシャトル利用推進室で,室長一人,部下二人,嘱託が私を含め3人だけの浜松町近くのビルの一室から日本の有人宇宙計画が始まったのである。先生は,宇宙開発事業団でも数々の委員長を歴任され,宇宙飛行士の選抜・訓練に深くかかわられた。昭和50年に東大退官後は医療情報システム開発センター理事長を始め数々の要職を兼任された。昭和61年には勲二等瑞宝章を受章されている。亡くなる直前まで,ご自身の健康科学研究所でお仕事を続けておられた。
 大島先生の学会活動も枚挙に暇が無い。我々の日本宇宙航空環境医学会の前身の日本航空宇宙医学心理学会の立ち上げに協力されて昭和30年からの初代会員で,37年には第8回総会を主宰され,昭和51年から63年まで理事長を務められ,平成3年に名誉会員になられた。他に日本ME学会,日本人間工学会,日本医療情報学会,日本産業ストレス学会,その他数多くの学会の理事長,名誉理事長,名誉会長などを歴任されている。
 名著「疲労の研究」をはじめ,数多くの著書,辞典,一般書を著し,論文にいたっては無慮数千といわれている。いつも書籍に囲まれていないと落ち着かないといわれ,どこの仕事場でも書籍に埋もれておられたため,その奥の先生までたどり着くのも大変であった。いまでも書棚を見ると,その奥に先生が居られるような気がしてならない。
 先生,何時までも我々をお導きください。どうかお心安らかにやり残したお仕事をお続けください。合掌



 
 
お別れの会   第1 回学会功労賞受賞


 
 
執務室にて   向井千秋宇宙飛行士と


 
 
向井千秋宇宙飛行士と   第40 回国際宇宙航空医学会の組織委員長