宇宙航空環境医学 Vol. 46, No. 3, 53-59, 2009

短 報

日本人飛行士搭乗のソユーズ打上げ支援活動に参加して

立花 正一

宇宙航空研究開発機構 有人宇宙技術部

Soyuz Launching Support Mission for a Japanese Astronaut

Shoichi Tachibana

Human Space Technology & Astronauts Department, Japan Aerospace Exploration Agency (JAXA)
(Received:26 April, 2010 Accepted:24 May, 2010)

1 はじめに
国際宇宙ステーション(ISS)の建設はほぼ完了しつつあり,建設資材の輸送に活躍したスペース・シャトル(7人のクルーと20トンの物資を運べる)は2010年中には引退の予定である。これは老朽化,維持コスト,技術的課題,将来構想との兼ね合い等,いろいろな観点からNASAが存続の可否を検討した結果,なされた決定であるのでいたしかたない。一方ISSの運用は当初2015年までの予定であったが,少なくとも2020年まで延長が決定されており,建設に長い期間と高額の費用を投じた「宇宙の科学実験室」が長期間活用できることになったのは喜ばしい。いずれにせよ,今後はISS長期滞在クルーの交代はもっぱらロシアのソユーズに頼らざるを得なくなる。宇宙航空研究開発機構(JAXA)の野口飛行士は,長期滞在ミッションへの参加は若田飛行士に次いで2番手であったが,JAXA飛行士としては初めてソユーズでの打ち上げおよび帰還をすることになった(日本人初のソユーズ搭乗は1990年12月に当時テレビ局員だった秋山氏1)が果している)。JAXAはこれまでスペース・シャトルに搭乗する日本人飛行士の支援は多数行っており2),業務にも慣れているが,ソユーズ搭乗支援となると初めての経験である。全面的に協力の得られたNASAとの調整に加えて,ホスト国であるロシアとの調整を詳細に行わなければならず困難も多かったが,いろいろと貴重な体験をすることができた。今回我々の支援活動を短報として報告するものである。
2 ソユーズ宇宙船(Fig.1)について
ソユーズ宇宙船は旧ソ連が2人乗りのボスホート宇宙船に続き開発した3人乗りの宇宙船で,サリュートやミールといった宇宙ステーションへの飛行士の往還に使われてきた3)。現在ではTMA(Transport, Modified, Anthropometric)バージョンがISSへの往還に使われているが,すでに40年以上の運用期間を経た技術的には成熟した安全な宇宙船である。ソユーズは軌道船(Orbital Module),帰還船(Descent Module),機械船(Instrumentation & Service Module)の3つの部分よりなり,ISSには軌道船部分を頭にドッキングする。軌道船にはトイレも備え付けられ,乗員が軌道上で活動できるようになっており,打ち上げから数日の間,ISSにドッキングするまではクルーはここを生活と活動の場とする。太陽電池パネルを装備した機械船は,文字通り機械類専用のモジュールで,姿勢制御ロケット,逆噴射ロケット,燃料タンク,生命維持装置用の水や酸素などが搭載されている。軌道船と機械船は大気圏再突入の際に切り離され,燃え尽きて廃棄される。中央の釣鐘状の帰還船だけが高熱に耐えられるように表面がコーティングされており,3人の飛行士を乗せて地上に戻ってくることになる。これまではソユーズは年2回打ち上げられ,クルーの6ヶ月ごとの交代を支えてきたが,今後6人体制を支えるためには,年間4回の打ち上げが必要となる。


Fig.1. Soyuz TMA in space ( from Internet Website)


3 支援のためのJAXAの体制
スペースシャトルの打ち上げ地であるケネディー宇宙センターは,観光地でもあるココ・ビーチにあり,交通の便や宿泊施設も十分に整っているため,打ち上げの際には日本からのゲストが100人規模になり,JAXAの支援要員も多数参加していた。しかしソユーズの打ち上げとなると事情は大きく違ってきた。打ち上げ地であるカザフスタンのバイコヌールは,中央アジアの砂漠地帯に位置し,飛行場には定期便が通っているわけではない。ソユーズ打ち上げ関連施設は事実上ロシアの管轄下にあり,モスクワからの航空便もロシア宇宙庁ないし関連会社エネルギアのチャーター便である。現地の宿泊施設にも限りがある。
そんなわけで今回のJAXAの打ち上げ支援要員も,少数精鋭(?)で臨まざるを得なくなった。バイコヌール派遣要員17名とモスクワ派遣要員10名で,この中に医療関係者は私と飛行士専任フライトサージャン(FS)の2名が含まれた。モスクワにはジョンソン宇宙センターに相当するモスクワ・ミッション・コントロールセンター(TsUP)があり,ミッション全体の動きの把握にはTsUPの方が,バイコヌールの打ち上げ現地よりも便利である。飛行士専任FSは飛行士と行動を共にし,打ち上げ日の12日前から既にバイコヌール入りしていた。私は専任FSと連絡を取り飛行士の健康状態を把握するとともに,バイコヌールに同行する支援要員およびゲスト等の健康管理にもあたった。バイコヌールにはJAXA派遣要員に加え,飛行士の配偶者と子供,および日本から飛行士の家族を含むゲスト13名,マスコミ関係者26名が,NASA側の要員・ゲストと伴に3機のチャーター機に分乗して向かった。
4 ソユーズ打ち上げ支援活動
(1) 打ち上げ4日前:12月17日(モスクワ〜バイコヌール)
我々はホテルのロビーに早朝の5時に集合し,6時にホテルを出発し,Vnukovo空港(チャーター機用の空港)へ向かった。我々のチャーター機には,JAXA要員,飛行士の家族およびゲスト,マスコミ関係者の総勢70名程度が乗り込んだ。早朝の移動のため,悪名高いモスクワの交通渋滞には巻き込まれずスムーズに空港に着いた。JAXA要員の一部は,このチャーター機以外に,ガガーリン宇宙飛行士訓練センター(GCTC)所属の1機とエネルギア社所属の1機に分乗し,別の空港から出発した。空港での出国手続きは案外スムーズに行われ飛行機に乗り込んだ。飛行機は古く,機尾に1個あるトイレは汚かった。
バイコヌール空港での入国手続きでは,私の荷物が引っ掛かり中身を点検された。私がJAXA支援要員およびゲストの健康管理のために持ち込んだ医療器材・薬剤がセキュリティー担当の興味を引いた。このようなこともあろうかと,私は予め医薬品等のリストを英語・ロシア語で用意していた。係官は医薬品の中に「麻薬」がないかどうかを繰り返し質問してきた。しかしこのリストがあったため係官への説明もスムーズにでき,比較的短時間で私は解放された。
(2) 打ち上げ3日前:12月18日(バイコヌール)
我々の宿泊したスプートニク・ホテルは,飛行士の宿泊しているコズモノート・ホテルまで歩いて数分の距離にあり,JAXA支援要員や家族が宿泊するには便利なホテルであった。ホテルの正面の表示には「バイコヌールで初めての本格的な西洋スタイルのホテル」とあったが,確かにアメリカの標準からいっても申し分のない清潔なホテルであった。シャワーも熱いお湯が十分に出て,暖房もしっかりしていた。飲料水については「蛇口の水は飲まないように」との注意を受けていたので,ペットボトルの水を利用した。JAXA要員およびゲストにも,この点の衛生管理をしっかり助言しておいたので,我々の滞在中,飲み水や食べ物によると思われる食中毒は発生しなかった。
NASAの支援要員および家族も同じホテルに宿泊したが,バイコヌールでの経験が長いNASAはこのホテルに専用の事務所を設置し,インターネット用の無線LANも完備していた。NASA事務所の隣の娯楽室もNASA無線LANがカバーしていたので,JAXAはここを臨時の事務所として,日本およびロシアの要員と連絡を取り合った。
この日はソユーズロケットのロールアウト(ロケットを組立工場から列車で打ち上げ地点まで運び,発射台に設置し,立ち上げる作業)に立ち会うために,早朝7時ぐらいには皆でホテルを出発した。暗闇の中のがたがた道をマイクロバスで進んだが,なかなか座り心地の悪い道行であった。1時間ほどで現場に到着し,上下防寒具に防寒帽という完全装備で線路の脇に立ち,ロケットの通るのを待った。線路脇には安全柵などは何もない。昔はコインをレールの上に置き,ロケットに潰してもらって記念に持ち帰ったらしいが,最近は禁止されているとのこと。しばらくしてロケットが尻のエンジン部分を前にしてゆっくりと歩く速度でやってきた(Fig.2)。両側には警備担当の軍人が同行していた。
ロケットの通過を見送ったのちは,再びマイクロバスに乗り発射地点に移動した。バスから降りた時は8時半を回ったところで,ようやく辺りの空も白み始めた。まずロケットが発射台に横倒しになっているところに近づき,皆で記念写真。隣では放送局の取材班が撮影準備をしている。「いよいよこれに野口飛行士が乗るんだな」,「意外と細身のロケットだな」などと思っていると,ロケットが起き上がり始めた。30度,45度,60度とどんどんと起き上がる。「シャトルに比べて,ことがどんどん進んで行くな。まるでミサイルの打ち上げ準備のようだ。」というのが私の個人的印象であった。それもそのはず。ソユーズロケットは1950年代に大陸間弾道ミサイルとして開発されたものが原型で,1957年の初飛行以来,これまでに1,750回ぐらい打ち上げられているそうだ。その間に不具合やバグはほとんど出尽くして,今では安全なシステムとして完成されており,打ち上げも淡々と手順に従って進むのであろう。あっという間に空を突き刺すようにそびえ立ったソユーズロケット(Fig.3)を目の当たりにし感動を新たにした。
ホテルに戻ってくつろいでいると,同行していたNASAの医師から連絡が入った。日本人カメラマンの一人が38度の発熱とだるさを訴えて受診したという(日本人メディア団はNASAとの契約により,NASAの医師が健康管理をすることになっていた)。患者が日本人なので私も相談を受けたわけだが,世界中で新型インフルエンザが蔓延していた頃なので,我々も慎重に対処せざるを得なかった。鎮痛解熱薬を1日分だけ処方し,脱水もあるので水分を沢山取るように指示し,翌朝再受診するように指示して返した。この時点で,記者会見などへの参加は控えさせ,原則ホテルの部屋で過ごし,部屋を出るときはマスクを装着し,うがいと手洗いをよくするように助言した。


Fig. 2. A scene of Soyuz rollout (from JAXA public photolibrary)


Fig. 3. Soyuz rocket at launch site (from JAXA public photolibrary)

(3) 打ち上げ2日前:12月19日(バイコヌール)
ソユーズロケットのロールアウトが,ロシア側の都合で1日前倒しになって18日になったため,我々は1日予定を早めてバイコヌール入りしていた。そのため,19日は夜10時過ぎからのクルーの記者会見以外には特別の予定はなく,昼過ぎにJAXA支援要員の連絡会議が入っている程度になった。
午前中に,例のカメラマンを再度NASA医師と一緒に診察した。すっか+り解熱し,風邪症状もなく,私の持参していたインフルエンザキットでは陰性であった。これにはちょっと困った。我々は症状はまだ続くだろうと予想し,感染予防の立場から「ソユーズ打ち上げまで」の間は,このカメラマンの活動は控えさせるつもりであったが,症状が1日で全くなくなり,インフルエンザ陰性となると,果たしてこのカメラマンを「拘束」するのは正当かどうか判断に悩んだのである。NASAの別の医師にも意見を求め,あと「24時間の観察」を続けようということになった。つまりこの間はホテルの自室に待機を続けさせたのである。
お昼前後は数時間暇になったので,この空き時間を利用して私はNASAの医師・看護師に案内してもらって近くのバザール(市場)に出かけることにした。大きなテントが沢山設置された中に,食料品,香料,衣料,日用品など,我々が大きなスーパーマーケットやディスカウントショップで見かける品のほとんどが売られていた。NASAの医師(彼はモスクワ駐在で,ソユーズの打ち上げ支援には何度も参加しているベテラン)のアドバイスに従って,サフランやターメリックなどの香料,干しブドウやナッツ類をお土産に買いこんだ。カザフスタンは我々と同じモンゴル系の黄色人種が大多数を占める国なので,市場を歩いていても親しみを感じた。
夜10時に,ソユーズの打ち上げ準備ができたことを正式に確認する会議(Crew Readiness State Commission)が行われ,JAXAからは理事長初め数名の幹部が出席した。この後10時半からクルーの記者会見がコズモノートホテルで行われるため,我々も家族・ゲストと伴に会場に出かけた。会場では3人の飛行士がガラス越しにインタビューに応じた。古川飛行士を含むバックアップの3人もプライムクルーの後ろに控えていた。晴れやかな記者会見であったが,家族支援役の若田・星出両飛行士が家族を記者団から守るように気を配っていたことが印象的であった。記者会見が終わると我々は早々に会場を引き揚げたが,直系家族(配偶者および子供)は飛行士と一緒に映画(ロシアの伝統で,見る映画も決まっている)を楽しむために残った。打ち上げ前の感染症予防のため,クルーはコズモノートホテルに打ち上げ12日前から「隔離」されており,接触できる人も専任FSに加え,一部の家族やプログラムに関係する幹部に限られていた。この「隔離」プログラムはロシア人医師により厳格に実施されていた。
(4) 打ち上げ1日前:12月20日(バイコヌール)
この日の打ち上げ準備は夜から始まるので,午前中は例の患者の診察以外はゆったり過ごした。再度インフルエンザキットで検査したが「陰性」で,その他の症状も全くなし。すっかり元気であることを確認し,発熱の主な原因は「脱水」であったろうと推定し,この夜に始まる記者会見からは,このカメラマンの参加を許可した。ここまで慎重に対処したのだから,ロシア側の医師からも文句は出まいと判断したのだ。私が日本から持ち込んだインフルエンザキットは大変有用で,NASA医師も喜び,我々の医療判断の手助けとなったことを追記しておく。
夜の9時にコスモノートホテルを出発するクルーの見送り行事に参加するため,我々はスプートニクホテルから徒歩で隣接する現場へ向かった。ホテルの玄関から続く道に沿ってしばらく寒空の中に立って待った。飛行士達はそれぞれの配偶者および飛行士室長らと最後の面談と出発のための儀式を行い,それが終わるといよいよ3人の飛行士が,ロシア風の景気のいい音楽とともに玄関から出てきた。飛行士達は両側に並んだ見送りの人々の中を晴れやかに進み,迎えの大型バスにすぐに乗り込んだ。その短い間もマスコミや見送りの人々のカメラのシャッターが休みなく切られた。バスに乗り込んだ野口飛行士も我々に向かって手を振ってあいさつをした。
我々はクルーの出発を見送ったのち一旦ホテルに戻ったが,すぐに大型バスに乗り込み射点近くのロシア宇宙庁の建物に向かった。今度はクルーがソコールスーツ(打ち上げ時に着る与圧飛行服)を装着するが,そのチェックの様子をガラス越しに確認できるというのだ。建物の別室にメディア関係者と一緒に待たされた我々は5人ずつのグループに分かれて,順次装着チェックの行われている場所に案内された。見学室には,飛行士の家族,各宇宙庁のマネージャー連中,マスコミ関係者などでごった返していたが,間隙をぬって前に進み野口飛行士のスーツ装着の様子(Fig.4)を脳裏に焼き付けた。見学を終えた我々はしばらくすると,今度は建物の外に出るように案内された。いよいよソコールスーツを着た3人の飛行士が建物前の広場でロシア宇宙庁の高官に出発のあいさつをする最後の儀式に立ち会うためである。また寒い中をしばらく外で待っていると,白いソコールスーツを着た飛行士3人が玄関を出てきた。マスコミの写真シャッターが切られる中,クルーが元気にあいさつの儀式を終え,バスに乗り込んだ。今度は本当に最後のお別れである。面白いエピソードをひとつ紹介すると,バスに乗り込んだクルーは射点に向かう途中,一度バスから降りて立ち寄るところがあるという。それはガガーリン飛行士が打ち上げ前に「小用を済ませた」場所である。飛行士たちは安全祈念のゲン担ぎのために,同じことをするかどうかはわからないが,同じ場所に立ち寄るのである。



Fig. 4. A scene of Sokol space suit check( from JAXA public
photolibrary)

(5) 打ち上げ当日:12月21日(バイコヌール〜モスクワ)
打ち上げ予定時刻は未明の4時前ごろということなので,我々はクルーを見送ったのち,3時間ほどの時間を過ごすため,射場近くの宇宙博物館へ移動した。この博物館では歴代のソユーズに乗り込んだ飛行士やミール宇宙ステーションなどについての資料が沢山展示されていた。射場をバックにラクダを連れた民族衣装の老人の古い写真などもあり,素朴な中央アジアの平原風景と最先端のロケットのコントラストが印象的であった。夜中の2時半ごろにカフェテリアで簡単な夜食をとったが,大変寒い中での温かい紅茶がうれしかった。3時になり,いよいよバスで射点の観覧席に移動したが,バスから降りると冷たいみぞれが降り始めており,アスファルトの地面は凍り始めていた。天候に左右されがちなシャトルの打ち上げを数度経験している身としては,ソユーズの打ち上げにどれほど天候が影響するのか気にかかるところであった。
しかしそんな懸念も杞憂で,ソユーズは3時52分予定通り暗闇の中の発射台で火を噴き,轟音とともにみぞれ交じりの空へゆっくり上昇し始めた。暗闇の中に突如現れたまばゆいばかりの火の玉は上昇を続けながら,我々の居る観覧席の方向へまっしぐらに迫ってくる。シャトルの軌道とは違い我々に迫ってくるのでちょっと緊張したが,ソユーズは我々のまさに頭上を高々と上昇し,消えていった。それぞれの感動を胸に反復し余韻に浸りながら,我々は三々五々バスに戻った。路面はカチカチに凍りつき,ゲストの健康管理も受け持つ私としては,ここで転倒して怪我でもされては大変なので,皆さんに注意を喚起し事なきを得た(案の定NASAゲストが1名転倒してけがをしたと聞いた)。バスに戻って防寒具を脱ぐと凍った雨粒が付着しており,外が相当に冷え込んだことを物語っていた。寒冷地仕様の帽子,コート,オーバーズボン,ブーツ,そしてスキー用手袋が大変役立った(Fig.5)。ホテルには1時間ほどの帰路であったが,打ち上げ成功に安心した我々はみな爆睡であった。
さて打ち上げの成功を見届けて,モスクワに帰ろうというところでケチがついた。我々はホテルに戻り1時間半ばかり休憩を取った後,空港に向かうために朝7時にホテルのロビーに集まった。飛行機の離陸は9時の予定である。ところが天候悪化のためホテル出発は11時以降と予定が変更された。一旦チェックアウトした部屋に戻り,取りあえず仮眠をとり,寝不足を解消する機会を得た。ところが今度は11時になっても一向に出発の予定が立たない。なんでも機体に雨粒が凍りつき,機体の整備に時間がかかるとのこと。この日の夕方には,モスクワでJAXA主催のレセプションが予定されており,時間的な余裕はない。午後の1時になって,空港の情報はわからないが取りあえずホテルを出発することになった。急きょバタバタとホテルで昼食を取り,1時半にロビーに再集合。本日はこの動作が何度も繰り返されている。しかしここでまた悪い情報がもたれされたらしく,3時に再度出発の可否の決断をすることになり解散。既に部屋もチェックアウトしたので,皆ロビーのソファーなどにそれぞれ座って待つしかなくなった。
最終的には4時半ごろに再度招集がかかり,見切り発車で空港に向かうことになった。またホテルに戻ってくるリスクを覚悟の上である。あまり期待せずに空港に到着したが,出国手続きのために係官がバスに乗り込んできたので期待は一挙に高まった。情報によると,飛び立つ予定の3機のうち1機は氷着が処置できず居残ることになり,一部の乗客は本日はバイコヌールに足止めとのこと。幸い我々の日本人グループは今日中にモスクワに帰れるとのこと。
さて,モスクワに夜6時ごろ(バイコヌールとモスクワは時差2時間)にようやく到着できた。その日はヨーロッパ全体を襲った寒波により,モスクワは一日で20cmほどの積雪があり,一面の銀世界に変わっていた。JAXAレセプションには一部の幹部だけが別便の車で急ぎ,我々は参加はあきらめて直接宿泊予定のホテルに向かった。夜の9時過ぎにホテルに到着したが,大変長い一日であった。
(6) 打ち上げ翌日:12月22日(モスクワ)
この日は一部の人々のGCTCへの見学を除いては日中は予定なし。これまでの情報の整理や連絡調整などに時間を充てた。
(7) 打ち上げ後2日目:12月23日(モスクワ)
この日の深夜2時ごろにソユーズがISSにドッキングする予定である。我々はドッキング見届けのため,0時30分ごろバスでTsUPに向かった。JAXA幹部を含む支援要員,飛行士の家族・ゲスト,マスコミの人々がそれぞれのバスで1時ぐらいにTsUPに到着した。TsUP内の見学等をしながら時を待っていると,ほぼ予定通り1時58分に無事ソユーズはISSにドッキングを果たした。それから1時間ほどで,連結部のハッチが開かれ,野口飛行士を含む新着クルーがISSに乗り込んだ。ちょうどクリスマスシーズンということもあって,クルーはサンタクロースの帽子をかぶり登場し,待ち受けた同僚クルーと抱き合って宇宙での再会を喜び合った。その後,新着クルーはTsUPに詰めているそれぞれの家族とテレビ会議システムで交信。我々も歴史的な瞬間に立ち会えたことを喜び合った。ソユーズが安全にISSにドッキングし,野口飛行士を含む3人の飛行士がISSクルーの一員になったことを見届けて,今回の打ち上げ支援ミッションの主要部分は終わった。



Fig. 5. JAXA launch support members with winter clothes

5 おわりに
12月のカザフスタン・バイコヌールからのソユーズ打ち上げは,予想通り寒さと悪天候との戦いであった。しかし事前に周到な準備とロシア宇宙庁およびNASAとの調整をしていたため,大きなトラブルもなく順調に打ち上げ支援ができたと思う。打ち上げ当日にヨーロッパを襲った大寒波は,ロンドン・パリを結ぶ電車をドーバー海峡トンネル内で何時間にもわたり立ち往生させてニュースとなっていた。我々も悪天候のためにバイコヌールからの飛行機が大幅に遅れ参ってしまったが,それ以外はほぼ順調にことが進み,ソユーズのISSへのドッキングにも立ち会うことができた。今後は日本人飛行士のISS長期滞在は全てソユーズでの往還となる。今回の体験から教訓を引き出し,今後さらに効率的・効果的なミッション支援を行っていきたい。

文 献

1) 旧ソ連/ロシアの有人宇宙船。JAXA NOTE 2008。日本宇宙フォーラム,東京, pp. 457, 2008.
2) 立花正一:国際宇宙ステーションと宇宙飛行士の健康管理,宇宙航空環境医学,46, 5-12, 2009.
3) ワレリーV.ポリヤコフ:地球を離れた2年間。WAVE出版,東京,pp. 12-17, 1999..

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