宇宙航空環境医学 Vol. 46, No. 2, 33-38, 2009

短 報

ソユーズ着陸時の医療支援活動に立会して

立花 正一

宇宙航空研究開発機構 有人宇宙技術部

Observing of Soyuz Landing Support Mission

Shoichi Tachibana

Human Space Technology & Astronauts Department, Japan Aerospace Exploration Agency (JAXA)
(Received:14 September, 2009 Accepted:8 September, 2009)

1 はじめに
 国際宇宙ステーション(ISS)の建設もほぼ完了しつつあり,2009年5月からは滞在飛行士の数も6人体制に移行して,初めてプロジェクトに参加している5つの宇宙機関(米,露,欧,加,日)の飛行士が軌道上に揃った。日本人初の長期滞在要員である若田飛行士も,そのメンバーとしてISSの運用,メンテナンス,科学実験等に活躍したことは記憶に新しい。 これまで建設用の大きな資材の搬送と多数の飛行士の輸送に活躍したスペースシャトルは2010年には引退の予定である。ISSへの今後の飛行士の輸送はソユーズが主役をなすことになり,2009年12月にISSに6ヶ月間滞在する予定の野口飛行士はJAXA飛行士としては初めてソユーズで打ち上がることになる(日本人で初めてソユーズに乗り込んだのは秋山豊寛さんである:1990年12月)。JAXAの医療チーム2)はこれまでスペースシャトルの離着陸時の支援のために,米国フロリダ州のケネディー宇宙センターやカリフォルニア州のエドワーズ空軍基地に出向いたことはあるが,ソユーズの離着陸のためにカザフスタンの草原に出向くのは野口飛行士のミッションが初めてとなる。 JAXAはこの初めてのミッションを遺漏無く支援するために準備を着々と進めているところであるが,その準備活動の一環として, 2008年10月に筆者がソユーズ着陸の現場に立会い,ロシア宇宙庁が中心となった医療支援活動をつぶさに観察する貴重な機会を得たので,所感を交えて報告するものである。

2 ソユーズ宇宙船(Fig.1)について

 ソユーズ宇宙船は旧ソ連が2人乗りのボスホート宇宙船に続き開発した3人乗りの宇宙船で,サリュートやミールといった宇宙ステーションへの飛行士の往還に使われてきた3)。現在ではTMAバージョンがISSへの往還に使われているが,すでに40年以上の運用期間を経た技術的には成熟した安全な宇宙船である。ソユーズは軌道船(Orbital Module),帰還船(Descent Module),機械船(Instrumentation & Service Module)の3つの部分(Fig.2)よりなり,ISSには軌道船部分を頭にドッキングする。軌道船にはトイレも備え付けられ乗員が軌道上で活動できるようになっており,打ち上げから数日の間,ISSにドッキングするまではクルーはここを生活と活動の場とする。太陽電池パネルを装備した機械船は,文字通り機械類専用のモジュールで, 姿勢制御ロケット,逆噴射ロケット,燃料タンク,生命維持装置用の水や酸素などが搭載されている。軌道船と機械船は大気圏再突入の際に切り離され,燃え尽きて廃棄される。中央の釣鐘上の帰還船だけが高熱に耐えられるように表面がコーティングされており,3人の飛行士を乗せて地上に戻ってくることになる。これまではソユーズは年2回打ち上げられ,クルーの6ヶ月ごとの交代を支えてきたが,今後6人体制を支えるためには,年間4回の打ち上げが必要となる。

3 ソユーズ着陸立会いの行動記録
 (1) 着陸3日前
 今回のソユーズ着陸の際の支援活動への参加は,たまたま着陸飛行士が2名のロシア人に加えて,もう1名はアメリカ人の宇宙旅行者であり,NASA飛行士が居なかったこともあり,JAXAの枠が確保できたという大変貴重な機会であった。私はNASAの着陸立会いチーム(ロシア駐在事務所長,ソユーズ打ち上げ/着陸担当連絡官,飛行士室代表,及びロシア人通訳の4人)に5人目として入れてもらい参加することになった。
 着陸日の3日前にモスクワ入りし,NASAチームに合流しブリーフィングを受け,携帯電話,カザフスタンの出入国カード,耳栓などの支給を受けた。勿論これ以外に,事前にロシアのマルチビザ,カザフスタンのシングルビザ,防寒具,携行食料品,飲料水,クレジットカード及び現金,海外旅行者傷害保険などは,日本出国時に準備した。



Fig.1 Soyuz TMA in space (from Internet Website)



Fig.2 Structure of Soyuz TMA which is composed
of three modules (from Internet Website)


 (2) 着陸2日前 (モスクワ〜バイコヌール〜クスタナイ)
 着陸2日前の早朝,我々はモスクワの宿泊ホテルを出発し,郊外にあるガガーリン宇宙飛行士訓練センター(GCTC)に向かった。ここで他のチームの人々(ロシア人飛行士担当のロシア人フライトサージャン,宇宙旅行者担当のアメリカ人医師および旅行者の家族,その他ロシア人着陸支援スタッフなど)と合流し,大型バスで隣にあるロシア空軍のチカロフスキー空港に移動した。ここでロシア出国手続きを済ませて, チャーター機(定員50人程度)に乗り込んだ。我々の乗ったチャーター機は帰りに3人の飛行士を乗せて戻るための機体で,3人をそれぞれ収容する個室コンパートメント(Fig.3)を備えていた。
 ソユーズ着陸地へのヘリコプター軍団が飛び立つ前線基地であるカザフスタンのクスタナイ空港に向けてGCTCのチャーター機が朝の8時に2機飛び立った。クスタナイまでは約3時間の予定である。離陸から2時間半ほどで我々の飛行機は降下を始めたので,てっきりクスタナイ到着かと思いきや,同行したNASA連絡官(元飛行士でロシア語も堪能)がクスタナイが悪天候のために,一旦バイコヌールに降りると教えてくれた。バイコヌールは砂漠のような草原に滑走路を作ったような寂れた場所であったが,ここはソユーズ打ち上げの行なわれるところであり,打ち上げ前の飛行士が2週間ぐらい準備をしながら日を過ごすコスモノート・ホテルのあるところでもある。我々は悪天候のお陰で図らずもバイコヌールに降り立ち,天候回復を待つことになった。
 コスモノート・ホテルは歴代の宇宙飛行士が打ち上げを待つ間に,“医療隔離”を兼ねて滞在するホテルで,カザフスタンにありながらロシア・GCTCの管轄で,正門には軍服の兵士が門番として勤務していた。ロシアの宇宙飛行士は打ち上げ前のセレモニーとして記念植樹をすることになっており,歴代の宇宙飛行士が植えた並木道が程よい木陰を作っていた。並木道の入り口左側の1本目は一番大きく太い幹の木であったが,これは1961年にガガーリン飛行士が植えたものであることを確認した時は,有人宇宙開発の歴史の重さを実感した。並木道は奥に行くとT字に別れ左右にさらに続くが,次第に木は若く細くなってくる。そのあたりにはアポロ・ソユーズ計画などに参加したアメリカ人飛行士の木も見え始め,1990年に日本人として初めてソユーズで飛んだ秋山豊寛1)さんの植えた木も誇らしげに風にそよいでいた。そして今回打ち上がったばかりのMike Fink飛行士(米)や旅行者のRichard Gariott氏の植えた木はまだほんの若木で,「枯らさないようにしっかり育ててあげて」と祈りたくなるような状態であった。木の種類はいくつかあるようで樺とかエルムといったものが多いそうだ。
 コスモノート・ホテルで昼食を取ったり,本を読んだりして時間をつぶしているうちに5時間ほど経過し,ようやく天候が回復したとのことで,午後5時45分再びバスに乗り込み空港に向かった。午後6時45分にようやく飛行機は離陸態勢に入り,滑走路に移動し始めたが,一匹の黒犬が迷い込み,盛んに飛行機を追いかけては吼え始めた。日本の空港では絶対に見られない「のどか」と言うか「いい加減」というか,そんな光景を後にして飛行機は再び離陸した。バイコヌールからクスタナイまでは1時間ほどの飛行であったが,日没と共に地平線に赤い太い帯を纏ったような夕焼けが窓から見えて,とても美しく印象的であった。 午後8時にクスタナイ空港に着いたが,入国手続きに手間取り,ホテルに到着した時は9時を回っていた。モスクワのホテルを朝5時に出発してから,実に14時間以上が経過したことになる。疲れていたため外での食事を断り,遅い夕食をホテル内で1人でとって早めに自室に戻った。ベッドにつく前に入浴したが,ホテル自体はとても立派なのに,蛇口からでるお湯は黄色く濁っており,ちょっとがっかりしたが異国の地と諦めてそそくさと入浴を済ませた。



Fig.3 A personal compartment of Crew Transfer Aircraft:by GCTC

 (3) 着陸1日前 (クスタナイ〜アルカリク)
 本日はクスタナイから2時間かけて,ソユーズ着陸地点により近いアルカリクという所に移動する予定。これはソユーズ着陸の予定時刻によって異なるが,今回のように着陸が午前中の場合は,クスタナイからのヘリコプター出動では足が長すぎて現地到着に時間が掛かりすぎるため,予め着陸地点により近いアルカリクまで前日に前進しておくという計画である。しかし,アルカリクはクスタナイとは違い,昔はボーキサイトの発掘や精錬で栄えたが,今は廃墟のような町で宿泊施設も限られており,場合によっては現地の家庭にホームステイになるかも知れないと言われた。何しろロシア側から提供される情報は少なく,予定も頻繁に変わるため,行ってみなければわからないとのNASA同行者の説明であった。取り合えず何が起きても困らないように,防寒具,下着,食料,水などはリュックに詰め込んである。
 クスタナイのホテルを大型バスで午前11時前に出発し,空港に向かった。天気は快晴である。空港では我々を待ち受ける10機のロシア軍ヘリが整然と並ぶ様は壮観(Fig.4)であった。うち2機は赤十字マークのついた救護ヘリである。空港では天気が急に悪化し雲に包まれたりしたため,天候調査等もあり離陸したのは午後1時過ぎであった。滑走路上で,あるいはドアの開け放たれたヘリの中で寒気に曝されながら1時間半ばかり待っていたわけである。知らされる情報が極端に少ないため,待ち時間はなおさら長く感じられた。
 編隊で離陸したヘリ軍団はすぐに雲を突っ切り雲上に出た。雲の厚みが次第に厚くなるためヘリは次第に高度を上げている。午後2時ぐらいに,突然ヘリは降下をはじめ雲中に入った。着陸態勢に入ったのかと思いきや,今度はヘリは雲の下に出たのである。雲の厚みが増して高度が上がるのを嫌って,雲の下の低空飛行を始めたらしい。見渡す限りの大平原の上空わずか数百メートルの低空をヘリ軍団が編隊で飛ぶのは壮観で,昔見た映画「地獄の黙示録」(ベトナム戦争を描いたもの)の中の1場面で,ワーグナーの「ワルキューレの騎行」の音楽と共に現れるヘリの編隊飛行を思い出してしまった。この低空編隊飛行が随分と長時間続けられた後に,午後3時にようやく我々はアルカリク空港(と言うよりは臨時駐機場)に着陸した。周囲はバイコヌール以上に荒涼とした草原と砂漠である。
 駐機場に待機していた車に乗り込み一路今夜の宿に向かった。でこぼこの砂利道の一本道を相当のスピードで進む車内の我々の揺れは相当のものであり,しかもシートベルトは着けようにも,無かった。道路わきに放牧されている牛,馬,羊がのんびり草を食んでいるが柵が無いため,いつ道路に飛び込んでくるかわからないような近さに居るものもあり,ちょっとスリリングであった。
 間もなくアルカリクのホテルに着いたが,クスタナイの豪華ホテルとは雲泥の差で,古い田舎の小学校のような建物であった。それでも良い方で,やはり同行の何グループかは今夜はホームステイになるようである。夕食のために勧められたレストランを探しに町に出たが,道は舗装しておらずデコボコでところどころに水溜りがあり,町の中心と思しきところにバザールが開かれていたが,売っている服や靴は質が悪く,お土産になりそうなものは何も無かった。周りの人々はほとんどがアジア系の顔で少し親しみを覚えた。何とかレストランを見つけて入ったが,店の外見はみすぼらしいものの料理はなかなかおいしかった。私はボルシチとプディング(餃子のような詰め物),そして土地のビールを頼んだが,いずれも美味であった。


Fig.4 Helicopter Corps supporting Soyuz landing

 (4) 着陸当日 (アルカリク〜ソユーズ着陸現場〜クスタナイ〜モスクワ)
 いよいよソユーズ着陸の当日である。我々は朝7時にホテルロビーに集合し,アルカリクのヘリ駐機場に向かい,8時には到着した。ようやく日が昇ろうとしている時刻で,外は身を切るような寒さである。8時半になりヘリ搭乗の指示があり,わくわくしながら乗り込んだが,例によってなかなか出発しない。ドアを開けっ放しなので,もろに冷たい風が吹き込んでくる。9時ごろからようやく先頭の1機がローターを回し始めたが,de-orbit-burn(ソユーズ宇宙船が軌道を離脱するためにロケットエンジンに着火すること)は既に始まっている時刻なので,着陸現場への到着が遅れるのではないかと気をもんだ。我々のヘリも9時15分には離陸し,雲中を次第に上昇して行くが,相当時間がたったのになかなか着陸の気配が無い。同乗していたNASAのベテラン飛行士M.B.は「この天気だと我々のヘリは降りられず,クスタナイ空港に向かうかも知れない」とボソッと耳打ちしてきた。「え? ここまで来てソユーズの着陸に立ち会えないの?」とがっかりしていたが,しばらくすると雲が薄くなり,M.B.が円窓から外を指差す。その先を追うと,なにやらソユーズカプセルと思しき黒い塊りとオレンジのパラシュートが見えた。「あれ?」と確かめると,M.B.が笑顔でうなずく。ヘリは間もなく着陸しドアが開いたので,興奮を抑えつつ着陸地点と思しき人だかりのしている場所へと,ぬかるんだステップ草原を進んでいった。途中で何度か止まりながらカメラのシャッターを切った。我々外国人はどこまでカプセルに近づけるのかわからず,恐る恐る進んだ。カプセルの周りにはテープが張られて,中に入らないように指示が出ていたが,そのテープの囲む範囲は以外に狭く,カプセルのすぐ近くまで接近できた(Fig.5)。既に3人の飛行士はカプセルから出て,近くに設けた椅子に座って,それぞれの医師や担当者の介助を受けていた。
 3人のうちロシア人船長とアメリカ人旅行者は元気で,携帯電話で家族(?)と話をしたり,介助担当者と笑顔で話をしたりしていたが,もう1人は「酔い」症状が強いらしく具合が悪そうであった。ソユーズは降下軌道を適正に保つためにカプセルが回転しながら下りてくるため,人によっては「乗り物酔い」の症状が強く出るらしい。スペースシャトルと違いソユーズでは,カプセルから引き出された飛行士はこの椅子に座っている間に報道陣に直接曝されてしまうので,ちょっと気の毒である。それでも,間もなく飛行士たちは椅子ごと抱えられて,近くに設置してある医療用テント(Fig.6)に移された。ここで飛行士たちは簡単な医学検査と必要な介助を受けるが,このテントは吹きさらし草原の中で,飛行士を「寒さから守る」ことと,「プライバシーを保つ」意味合いで重要であると,同行のロシア人医師から説明を受けた。
 着陸現場にはATV(All Terrain Vehicle)と呼ばれる不整地仕様の装甲車(Fig.7)も集合していた。これは悪天候でヘリが着陸できない場合でも,飛行士の収容・救護活動ができるように備えているバックアップ部隊で,着陸前夜から着陸想定地点に移動をして万が一に備えていたとのこと。この装甲車も車内にはベッドや救急医療器具を備えて,バックアップの医師が乗っている。
 着陸現場に小1時間ぐらいいただろうか。我々はヘリに戻るように指示され,飛行士達よりも一足先に,報道スタッフを乗せたヘリに同乗して,クスタナイ空港に帰った。クスタナイ空港では,空港建物内で帰還歓迎のセレモニーが準備されており,飛行士達のヘリ到着を今か今かと待っていた。30分ほどして飛行士1人ずつを載せたヘリが3機次々と着陸し,元気な2人の飛行士は車両でセレモニー会場に向かったが,「酔い」症状から回復しない飛行士は,そのままロシア回送用の飛行機に乗せられ,機内で仲間を待つこととなった。
 セレモニーは土地の人々が沢山集い,民族衣装を着た美しい女性達から花束贈呈が行なわれた後,ひな壇上の椅子に座った飛行士がカザフスタンの民族衣装のローブと帽子を着せられ,簡単なスピーチとインタビューを受けるというもので,短時間で終わった。
 セレモニーが終わるとすぐに飛行士はGCTC機に乗り込み,我々も追うようにして同機に乗り込んだ。機内では3人の飛行士はそれぞれの個室に入った。個室にはベッドとテーブルが取り付けてあり,食事を摂ったり仮眠をとることができる。それぞれの飛行士の担当医師は適時適切に個室に入り,こまめにケアを続けていた。
 クスタナイを離陸して約3時間後にモスクワのチカロフスキー空港に到着した。モスクワで待っていた家族や関係者が設置されたタラップの周囲を取り囲み,飛行士たちは支えられながら注意深く階段を降りて,待ち構えた人々の歓迎を受けた。飛行士達は,家族と共にバスに乗り込み,GCTCの施設へ移動した。長期滞在クルーは今後GCTC内の施設で医学検査とリハビリテーションを行なうことになる。飛行士達を乗せたバスを見送ったところで私の今回のソユーズ着陸立会いミッションは終了した。


Fig.5 A Soyuz Descent Module after landing at Kazakhstan meadow



Fig.6 A field service tent where crew members receive medical check and care



Fig.7 All Terrain Vehicles (ATV) which are back-up for helicopter coprs in case of bad weather


4 気づき事項:野口飛行士のミッション支援に向けて 
 今回ソユーズの着陸への立会いは私にとって大変貴重な体験であり,JAXAの来るべきソユーズ搭乗ミッションに向けての準備のためにも重要であった。以下,今回の立会い任務からの気づき事項をまとめた。
 (1) ロシア側からの情報は少なく,予定も頻繁に変更される可能性がある。
 言語の壁(ロシア語)の問題やロシアの国柄や体制(?)のためか,こちらの欲しい情報が必ずしも十分に得られる環境になく,また天候や諸事情により予定が変更されることは頻繁であると覚悟する必要がある。従って,同行の通訳等を通じて頻繁に情報を収集し,状況を確認する必要がある。
  (2) 個人装備品をしっかり準備すべきである。
 カザフスタンの草原は環境も厳しく,季節によっては大変寒い。防寒具,雨具,飲料水,携行食品(ビスケット,チョコレートなど)等,自分を守る最低限の装備品の準備は必須である。カザフスタンではクレジットカードが使えず,現地の通貨(テンゲ)しか受け付けない場合もあるので,予め現金を用意しておくことも大切である。現地の飲料水も必ずしも安全とはいえないので,最低限の飲料水(ペットボトル)の準備は必要である。
  (3) 待機時間が予想以上に長いので,忍耐が大切。
 今回は飛行場やヘリの中で相当に待たされることが多かった。相当の人数が集団で安全を確認しながら行動するため, 持ち時間が多いのはやむを得ないのだが,やはり「郷に入れば郷に従え」で,ロシアのプログラムに乗りかかっている以上,それに従って耐えるのは当然であった。得られる情報量が少ないため,なおさら待機時間が長く感じられたきらいはある。
  (4) 連絡通信手段の確立が重要。
 ミッションの成功には緊密な情報連絡網の確立が欠かせない。日本や欧米とは違い,ロシアやカザフスタンは携帯電話やインターネット回線が必ずしも充実していない。今回も同行したNASAチームが盛んに空港やヘリの中から,通信連絡がどの程度確実にできるかを確認していたが,JAXAとしても独自の通信網を確立することが必要であると感じた。
  (5) 海外旅行者傷害保険への加入
 ロシアやカザフスタンにおいて,日本や欧米並みの医療サービスを受けることは期待できない。JAXA支援要員やゲストが具合悪くなった場合は,医療サービスの行き届いた国や地域に搬送して医療行為を受けさせる必要が出てくることも考えられる。この際には医療搬送や医療行為をカバーする保険に予め入っておくことが重要となる。また持病を持っている者は,十分な治療薬を自分で携帯することも必要である。

5 おわりに
 いよいよ2009年12月にはJAXAの野口飛行士がソユーズでバイコヌールから打ち上げられる。彼は6ヵ月後には長期滞在を終えてカザフスタンの草原に降り立つ予定である。ソユーズでの帰還は日本人では秋山豊寛さんが既に体験しているが,JAXAが着陸時の健康管理をするのは初めてであり,またロシアに支援を受けつつもその責任はJAXAにあることを考えると,十分な準備と周到な計画を立てて望まなければならない。今回の立会い体験ではそのための重要な情報を得ることができた。

文 献

1) 旧ソ連/ロシアの有人宇宙船,JAXA NOTE 2008,日本宇宙フォーラム,東京,p457, 2008.
2) 立花正一:宇宙飛行士の健康管理について,日本マイクログラビティ応用学会誌,Vol.26 No.4, 2009 (掲載予定)
3) ワレリーV.ポリヤコフ:地球を離れた2年間,WAVE出版,東京,pp.12-17, 1999.

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