宇宙航空環境医学 Vol. 45, No. 4, 166, 2008

特別講演

航空機操縦士の身体的適性に関する審査会の役割とジレンマ

川口 良人

航空身体検査証明審査会 委員長
東京慈恵会医科大学 客員教授
神奈川県立汐見台病院 顧問

Dilemma in medical certification procedure in civil air pilots

Yoshindo Kawaguchi

Chairman, Aviation Medical Review Board
Professor of Jikei University, School of Medicine
Consultant, Kanagawa Prefectural Hospital

飛行の安全確保は機体の完全な整備と心身ともに健康な操縦士に委ねられている。前者は工学の進歩により客観的,数量的,多面的,さらに反復して検査を行うことができ,その精度は理論的には100%であろう,それに反して操縦中に突発的に精神・身体的異常が生じ操縦不能とならないことを保証することは如何に優れた医師がこれにあたっても困難である。避けることのできない不確実性が存在する。しかしながらいかに予測が不確実であっても,現実には操縦中に精神・身体的事故が発症し,操縦不能に陥った場合,担当した健康管理医,指定航空身体検査医(AME)にたいして非難の目が向けられことは程度の差はあっても避けることはできない(小脳出血例,尿路結石例,急性膵炎例)。
 不確実性の最大の要因は申請者の個体差とともに担当医師の過去の経験,文献からの情報,その時点での診察能力,電気生理学的機器により得られる情報の質,臨床検査所見(範囲と解釈),画像診断(制度と読影力)などである。
 さらに,病態の解明,診断技術の進歩,治療の進歩は極めて早い速度で進んでおり,操縦士の身体検査実施項目を定めた基準,判定マニュアルはこの現状に追い付けない場合が少なくなく,決められた基準以外の検査手段を適用しない限り診断が困難な場合も少なくない。この現況が演者の述べる “ジレンマ” の本質である。
 本講演では最初に審査会の機構と現在の審査件数の推移ついて述べる。指定航空身体検査医が不適合ないしは疑義のある事例を対象に航空局長の諮問機関である審査会が判定する。判定結果は基準に再照合し合格,いくつかの条件を付加したうえでの条件つき合格,一定の技能を有する航空身体検査医のもとで経過を観察し変化がなければ指定医レベルで合格とする特別判定指示,疾病に恒久的に変化がなく操縦に支障がないと判定された事例に対するケース・クローズ,判定資料不備のために保留となるケース,不合格と判定される事例がある。判定項目の中に新たに特別判定指示,ケース・クローズが設置されたことはライセンス発行の簡素化につながるであろう。又,審査の席上で航空法に全く記載されていない幾つかの勧告が申請者,所属機関にたいして明示されることは規制の緩和要因としてとして重要な点である。
 本会は航空局長の諮問機関として1970年に発足し,月一回の審査会を開催しているが年々審査の対象件数は増加し,医学の進歩とともに,審査の内容も変化を遂げている。審査件数については年間17,700件のライセンス申請があり,このうち約1,300 件が審査会対象事案である。近年,循環器疾患,眼科領域の疾患,耳鼻科疾患,悪性腫瘍治療後の判定が5年前とそれらと比較して著しい増加を示している。この増加は循環器疾患治療の多様化,悪性腫瘍の治療成功例の増加など医学の進歩を如実に表しており,操縦士もその恩恵を受けているといえる。しかし,医学の進歩は一方では,この報告の例に見るごとく就労可能な人員増加,就労時間の拡大などポジディブ要因となるが,他方では診断技術の進歩は将来の疾病発症の可能性を予測できるものであり,訓練に多額の費用を要するパイロット候補として排除されてしまう可能性が予測される。基本的人権である職業選択の自由を侵害しかねない要素を占めている。具体的な事例について多発性のう胞腎を紹介する。
 操縦士所属機関における収益,就労率確保と厳密に判定された精神身体的適性との間には共通項目として安全運航が掲げられているものの,相容れないギャップが存在することも事実である。具体的には所属機関は就労人数を確保するために,また,検査費用の増加を抑制するために航空業界に限定された世界のスタンダードをクリアすることを標準として判定を求めるが,一方,判定にあたる専門医は安全性を可能な限り求めようとして最先端の検査結果を参考に判定しようとする。身体的事故を未然に防ぐにはこの指向は誤りではなく,万人が望むものであろう。しかし,この最先端検査を行うことによりどの程度の安全性確保(操縦不能に陥る危険性の縮小)につながるのか検証されていない。したがって,この問題の妥協点を症例ごとに詳細に検討する結果,判定に個人差がでることも当然のことである。さらに,申請者間の判定ギャップは60歳以上であっても就労する操縦士では生理的退行変性が加わりますます大きくなる傾向があり,同様な疾患であってもAは合格,Bは不合格という判定結果に到達することもまれではない。この点も審査会の大きなジレンマである。
 最後に将来の審査会のありかたについて述べたい。今や社会不安ともなっている虚偽の行為,虚偽の申請は航空業界に存在しないとはいえない。実際にはがん治療の記録の未申請の事例が実際に存在したことから抜き打ち検査の権限を審査会に与える,専門医集団で構成される各疾患,病態についてのパネルの設置(臨時召集方式)を確立する。審査会の能力向上のためには,申請者が最初に検査を受ける指定航空身体検査医の能力の向上が基本である。いまや一般的な移動手段となっている航空機内で遭遇する可能性が高い “In-Flight Medicine” について,わが国の医学教育の中に取り入れ,卒後研修のなかで “In-Flight Medicine” の疑似体験を履修させることも必要である。指定航空身体検査医の質的向上とそれに見合った報酬を保証する。航空身体検査基準についての改訂サイクルを現在の医学に遅れないように敏速化する。
 以上,審査会の現況,ジレンマ,提言などを中心に述べる。