宇宙航空環境医学 Vol. 43, No. 4, 2006

宇宙基地医学研究会

MERSS-3. 月・火星有人探査時代の医学的課題

立花 正一

宇宙航空研究開発機構

Medical problems in the era of manned exploration to Moon and Mars

Shoichi Tachibana

Japan Aerospace Exploration Agency

アメリカを中心に国際宇宙ステーション(ISS)計画以後の有人宇宙開発の目標として月・火星の有人探査の計画が始動している。JAXAも2020年頃には月の有人探査に参加することを目標に,機構内で検討チームを設けて活動を開始している。
 惑星有人探査ミッションとなるとISSでの地球低軌道の周回ミッションとは違った身体的・心理的ストレスが飛行士に加わることが予想される。すなわち惑星探査ミッションでは,より深い宇宙環境へ進出し,地球からの通信やコントロールは困難となり,不具合や事故が発生しても簡単には地球へ帰還できず,また危険な船外・基地外作業の頻度もISSよりも格段に増加するであろう。このようなミッションの特徴から予想される医学的課題を分類すると,特に放射線被曝,精神心理的分野,外傷・疾病対策,リスク評価と容認などの点がクローズアップされる。
 放射線被曝量は月や火星ミッションを想定して計算されているが,1日の被曝量はISSと比較してそれ程大きいわけではない。しかしミッションの期間に比例して大きくなること,火星ミッションの場合は往復の途中での被曝量が大きいこと,宇宙では陽子や重粒子などのより重篤な影響を及ぼしかねない種類の放射線「粒子」を直接浴びることなどの点で大きな課題となるであろう。
 アポロ計画のクルーのコメントからも裏付けられるように深宇宙への進出は孤立感,隔絶感,無力感を強める。このような心理的ストレスを克服してミッションを成功させるためには,クルーは集団としての結束力を強め,強いモチベーションを維持し,問題は自分たちで対処し解決する自己完結型の独立性の強いチームとして機能する必要がある。個々のメンバーも高い自己管理能力,リーダーシップ,フォロアーシップが要求される。飛行士の選抜にはこのような観点が含まれるべきであるし,訓練に際してもこの点が増強されるプログラムを組む必要がある。
 ミッションの特性や期間からクルーが外傷や疾病に罹る率も増加することが予想されるが,現状の医療対策では対処は困難なことも多い。例えば虫垂の予防的切除や事前医学検査の徹底によるリスクの軽減など「予防医学」的な観点からの対策が重要であるとともに,いざという時にその場で対処できる「自立医療」的な能力と技術の向上が期待される。自立医療の向上にはAstronaut-physician(医師たる飛行士)の参加や携行すべき医療機器の進歩,微小重力下での手術等の治療技術の進歩が必要となる。
 一方,今後の有人宇宙開発は正確なリスク評価と容認が必要となる。事故によるクルーや宇宙機の喪失は大きな社会的な反響を及ぼし,宇宙開発計画自体の存亡に関わってくるからである。医学的なリスクを出来るだけ詳細かつ正確に算定し,それが容認できる程度の十分小さなリスクであるかどうかを評価し,そのリスクをクルーだけでなく全ての利害関係者(国民を含む)に説明し同意を得ることによって,初めて健全な有人宇宙探査が推進できるのである。